コラム

サンデル教授の哲学講義は特別でもなんでもない

2010年09月06日(月)10時03分

 マイケル・サンデルというハーバードの先生の哲学の講義が面白いというので話題になり、TV番組化されて日本でも中継されたり、サンデル先生自身が日本の東京大学で模擬授業を行って喝采を浴びたりしているようです。本当はこうした現象は70年代の後半ぐらいからスタートしていれば良かったのですが、遅いから無意味とは思えません。今からでも遅くないので、日本でも高等教育の指導法としてこうした抽象的な論議の訓練ということを導入すべきだと思います。

 まず、誤解を解きたいのは、このサンデル先生の講義というのは、私がビデオクリップで見た範囲では、サンデル先生の専売特許でも、ハーバードの特殊な優位性を表しているものでも何でもありません。確かに日常的な問題から抽象的な原理原則の話に気づかせるとか、学生の反応に当意即妙なレスポンスができるという意味では、教育者として優秀な資質を持った先生だと思いますが、アメリカの大学教育の水準の中で傑出しているとは思えません。こうした授業形式は、極めて一般的であり、サンデル先生やハーバードの学生だから可能というものではないのです。

 合格者のSAT(大学進学適性試験)2教科平均点で1500点近辺のハーバードなど「アイビー」であっても、1000点台で入れる小規模カレッジや地方州立であっても、こうしたスタイルの授業は当たり前です。宿題に「リーデイング・アサインメント(読書リスト)」を提示して、各人はそれを読んで内容を把握しつつ自分の立場を決めてくる、それを元に授業では討論に参加する、そんな形式です。仮に授業規模が大き過ぎて講義の時間内では全員に発言機会を与えられない場合は、その授業とペアになる少人数セッションの受講を義務付け、助教なども加わって、全員がディスカッションや作業に参加、そこで「ちゃんと課題を読んだか?クラスメイトの議論活性化に貢献したか?」をアピールしないと単位は取れません。そんな仕組みです。

 こうした訓練の場を与えることを、日本の中高等教育はずっとサボってきました。教える人材がいないとか、メソッドがない、など言い訳は色々できるでしょう。ですが、もう待ったなしであることは間違いありません。複雑な現代社会における複雑な問題を解決する、あるいは解決できない問題を抱えつつ最善手を打ち続ける、その中で多様な価値観を持つ相手を理解しながらコンフリクトの落しどころを探る、そうしたビジネスや行政に求められる能力を鍛えるには、抽象論と現実把握、価値観の異なる相手との共存方法など、生きた議論の訓練をしなくてはやっていけないからです。

 かつての日本(今でもそうですが)では、公教育はまるで保守的な反面教師のように、静的な知識の紹介と定型的な訓練の反復に徹していました。社会で本当に必要な動的・相互的な頭の使い方の訓練の部分については、若者たちは、例えば学生運動や文学サークル、演劇活動などで補ってきたのです。ですが、そうした機会は、価値観の多様化とともに衰退してしまいました。若者の知識や価値観は、そこに時代や世代の流行があり、誰もが仲間意識を持っていれば何らかのコミュニケーションを通じて活性化されるかもしれませんが、現代のような多様化の時代では自然発生的なものには期待できないようです。であるならば、公教育でそうした動的・相互的な頭の使い方や、そのためのコミュニケーション様式の訓練を行うことは急務でしょう。

 サンデル先生の講義は面白いかもしれませんが、東大の講堂でセレモニー的に行われただけでは、何の意味もありません。日本語におけるディベート様式、抽象論を効率的に議論する言語様式を模索しながら、ありとあらゆる高等教育の場でこうした指導メソッドが導入されなくてはならないと思うのです。指導メソッドの中で重要なのは、ディベートが人格の優位劣位にならないようなプレーンな言語形式の開発です。日本で長い間、価値判断を伴なう議論が文化として成熟してこなかったのは、同じ立場の人間が共同体意識を持ってしまって、敵味方の安易な二元論になる一方で、陣営内部の議論の多様化ができない、いわゆる党派性の弊害があったと思います。この問題は、旧世代の退場とともにかなり克服できる条件が整ったとも言えます。

 ですが、改めて思うのは「世界観」を持ってしまった人間は、価値を共有できていない人間にもおなじ「世界観」を押し付けようとする、すると主張イコール相手の人格否定になってしまう、その辺の問題が日本語の場合ですと対話にどうしても上下関係のニュアンスが持ち込まれてしまうために、スッと抜けていけないという悩みがあります。結果的に、ディベートの勝敗イコール人格の優劣のような形になってしまうのです。例えば、キレイな負け方とか、相手を追い詰めない勝ち方といったコミュニケーション上の様式が、日本語のディベートには余りないのです。学生運動の世代なども「ナンセンス」といった罵声を浴びせて「自己否定」を強要するなどかなり粗っぽかったわけです。今でも議会のヤジとかにそうした野蛮さは残っていますし、今どきのネットでの炎上なども同じことだと思います。

 そのあたりに、新しい「共存のコミュニケーション」を模索しつつ、まずはディベートによって価値判断を伴う、動的・相互的な頭の使い方の基礎訓練を行う場を公教育に導入してゆくこと、これは待ったなしであると言えるでしょう。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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