コラム

突如「日本型デフレ」を心配し始めたアメリカ、その背景とは?

2010年08月04日(水)11時08分

 7月末以来、アメリカの金融界では突然「デフレ懸念」という言葉が囁かれるようになりました。とにかく景気の戻りが遅い、雇用の回復はもっと遅いという中で、物価が安定しすぎているし、消費者の心理がなかなか回復しないというフラストレーションがたまる中で、多くのアナリストが真剣に「このままでは日本の失われた10年(ロスト・ディケイド)になってしまう」と言い始めたのです。1つの伏線は、FRB(連邦準備理事会=日本銀行に相当)のバーナンキ議長が、7月21日の議会証言で、米国経済は「異例なまでに不確実("unusually uncertain")」であると発言したのを受けて株が下がったというエピソードです。

 この「異例なまでの不確実」という、それこそ「異例な」発言をどう解釈するのか、色々なことが言われたわけです。まあ不確実という中には良い方に転ぶ可能性も入っているのかもしれませんが、やはり「異例なまで」という以上は漠然とネガティブな印象になるのが自然というわけで、その結果、月末にかけて出てきた消費指数、GDP、物価などのデータを総合して「心配すべきはデフレである」という雰囲気になったのです。

 ただ、私にはアメリカ経済が「日本型デフレ」に陥る可能性は少ないと思います。というのは、消費市場を取り巻く条件が日本とは全く違うからです。まずアメリカは先進国中唯一、出生率が人口置換水準(人口維持に必要な2・1)を越えており、移民流入というファクターも含めると少子化の懸念はほとんどありません。従って分厚い現役世代の購買力は拡大すると考えるのが自然です。また核家族のイデオロギーが浸透しており、家庭をベースとした消費文化には衰退の兆しは見えません。

 これに加えて、サービス業などでの給与水準の低下もありません。法制と慣行で労使の力関係のバランスが成立しているアメリカでは、リストラによる要員削減はあっても、個々の時間給・年俸の切り下げという形での人件費デフレというのは、日本ほど起きてはいません。勿論、いわゆる「一家を養える正規雇用」からパートや外注へという激しいリストラは、80年代から90年代にかけてやってしまっているという要素は無視できませんが、とりあえず2010年の現在、正規から非正規へとか時給のカットなどの問題が悪化してゆく雰囲気はないのです。

 勿論、その他のグローバルな「価格低落」のトレンドはあります。IT関連のソフト・ハードのビジネスにおける無限の価格低落傾向、電子機器や衣料品に見られる新興国での大量生産による価格破壊の横行といった現象は、完全に国境を越えた話であって、アメリカも無関係ではいられません。というよりも、こうしたトレンドを主導しているのはアメリカの流通業だとも言えます。ただ、こうした構造に関しては、まずITの価格破壊はそのまま企業においても個人においても事務作業の生産性向上に直結するので、回り回れば経済成長へのプラス要因になるものですし、後者の価格破壊トレンドは中国の人件費などの問題からそろそろ底を打ってきているという見方もできるでしょう。

 確かにアメリカの景気の戻りは非常にスローです。ですが、既存の社会秩序が崩壊するのではという不安感情や、人々の人生設計が困難になっているという閉塞感はありません。人々は怒りながらも、景気の反転を気長に待っているのであって、例えば政権批判はするにしても、アメリカという国や自分の人生への悲観論に振り回されているのではないのです。例えば3日の朝には、解雇を恨んだビール配送業の従業員が乱射事件を起こして8名の同僚を射殺するという事件がありましたが、これはあくまで人種や銃の問題、あるいはメンタルヘルスの問題であって、自殺した犯人の「閉塞感」に多数の世論が同情や懸念を持つという雰囲気はありません。

 そんな中、7月に発表された各企業の第2四半期決算は意外なほどに好調です。各企業は余剰キャッシュを貯め込んでおり、この先に景気が本格的に回復してきたときには研究開発やM&Aなどの勝負をかけてくるでしょう。では、どうしてこの7月末に来て「日本型デフレへの懸念」が囁かれるようになったのでしょうか? 私には、どうも政治的な匂いがプンプンするのです。そこには日本でのバブル崩壊後の「失われた10年(20年?)」に関して、「景気浮揚のために行われた財政出動がほとんど効果のないまま、財政赤字だけが悲劇的に積み上がっていった」という評価を与える中で、オバマ政権の「大きな政府論」を牽制しようという、そんな動機があるように思います。

 その急先鋒は、「ティーパーティー」グループの理論的支柱というべき、エコノミストのリック・サンテリ(CNBCの債券市場アナリスト)でしょう。リーマン・ショックの直後から「銀行への公的資金注入」にも「景気刺激策」にも「自動車産業への支援」にも一貫して反対してきたサンテリは、「これだけ雇用の回復が遅れたということは、潰れる銀行を全部潰して信用の自然反転を待った方が良かったということだ」と吠えているのですが、「ブレていない」という点では確かに説得力があるので、ジワジワと人気が出てきています。サントリという人自体は、まだまだ知る人ぞ知るというレベルですが、彼に代表される「財政規律と小さな政府」論は、中堅選挙へ向けた共和党の復調を後押ししているわけで、その分、オバマ=ガイトナー=バーナンキに対しては漠然とした不信感が出てきているのです。

 そのガイトナー財務長官は2日に行ったスピーチの中で「アメリカが日本型デフレに陥ることはない」という反論を行っていますし、同長官は更に3日付けの「ニューヨークタイムズ」では『景気回復を歓迎する』というタイトルで、民間の雇用改善や自動車販売の好転、更には注入を受けた銀行からの公的資金返済などを列挙しながら「スローだが確実な回復」がされていると述べて、政権側として成果をアピールしています。

 ということは「民主党=オバマ政権」としては「景気は回復しつつある、大きな政府的政策は正しかった」という立場、これに対して「ティーパーティーを含む共和党」の側は「財政出動は失敗でありアメリカは日本型デフレに陥る危険、従って財政規律を厳格にせよ」という立場というわけで、現状認識と政策の上で正反対の立場を取りつつあるのです。ちなみに、オバマ政権の側が財政赤字に無頓着なのかというとそうではなく、今週発表されたように、8月末のタイミングをもってイラクへの米派遣軍の本格的な撤退を開始するなどといった「軍縮」による経費節減を考えているようです。米国の与野党は中間選挙へ向けて激突モードに突入というわけです。

(次回のブログ更新は8月16日の予定です)

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 4
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 5
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 6
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 7
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 8
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    雪の中、服を脱ぎ捨て、丸見えに...ブラジルの歌姫、…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 6
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 7
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 10
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story