コラム

党議拘束なき民主主義、医療保険改革可決のドラマ

2010年03月22日(月)13時26分

 先週の週末、アメリカでは長期にわたって政治課題であった医療保険改革法案がいよいよ採決されるとあって、時々刻々と変わる情勢が延々と報道されていました。結果としてはオバマ政権のなりふりかまわぬ「最後のツメ」が功を奏して216の可決ラインを上回る219の賛成を確保、下院は既に上院の可決している案を可決して法案は一本化されました。アメリカの憲政史上画期的な「医療保険改革法案」はここに可決されたのです。その意義と今後の動向については改めてお話するとして、とりあえずこの週末に進行していた事態が何であったのかを確認しておきたいと思います。

 別に選挙があったわけではありません。今回は上院の決議した法案を、下院が丸呑みするかどうかという下院の議決に注目が集まったわけですが、その下院の任期は2年全員改選ですが解散があるわけではありません。また、日本の衆議院と参議院のように、上下両院のどちらかが優越して、再可決による法案成立という道筋もありません。ただひたすらに、下院での議決がどうなるかに注目が集まったのです。

 下院の定数は435ですが、現在欠員が4あるので有効票数は431、その単純過半数はしたがって216というわけです。この216というのがマジックナンバーで、オバマ大統領はこの数字の獲得を目指してものすごい政治工作を繰り広げました。共和党の178は全員が反対で結束しており、問題は民主党の議席253の中からの反対者をいかに37以下に抑えるかです。

 ところで、この反対者ですが、日本の場合は「造反議員」ということになり、重要法案でこれをやると党本部から戒告や除名などの処分を食らいます。ですから、処分を恐れて欠席してみたり、棄権してみたり色々な中間的な態度を取ることもあるのですが、いずれにしても政権の帰趨を左右するような重要な法案に反対したら、与党の場合は相当に問題になるでしょう。

 ところがアメリカにはこの「党議拘束」がないのです。下院も上院も、民主党も共和党も、どんなに重要な法案であろうと条約の批准であろうと、あるいは予算案や大統領の罷免といった決議であろうと、基本的に「議員が党の方針に従わない場合は、処分される」ということはないのです。何故かというと、国会議員というのは選出された選挙区で自分に投票してくれた有権者の代弁者という原則が、帰属政党という団体の拘束力を上回っているからです。

 例えば、CNNのジョン・キング記者が指摘していたのですが、今回のようにギリギリの採決の場合は議場の両側に両党の院内幹事(ウィップ)が立って、そこにまだ投票していない議員を集めて説得工作をするのだそうです。キング記者によれば(多少誇張した話ではありますが)議員の方は「自分はそんな投票をしたら今度の選挙で落ちてしまう」と訴える一方で、幹事の方は「キミの信念はどうなんだ? 国家への貢献、理想の実現に比べればキミの今回の議席なんて小さなものさ」などと選挙に落ちても構わないと言わんばかりの説得をやる、そのギリギリの部分で決まることも多いのだそうです。

 ちなみに、今回の採決に際しては民主党議員団に影響力の大きなビル・クリントン元大統領が採決前夜になって猛烈な切り崩しをやったそうで、何でも「賛成してくれたら選挙応援に行く」という殺し文句が結構効いたという報道もあります。クリントンにしても、93年に自分とヒラリー夫人の進めた医療保険改革が議会共和党に潰された敵討ちとして必死らしいのですが、一方のオバマ大統領の方も最後になって大統領権限での一部法案修正を約束する形で8名一気に切り崩すなど、とにかくものすごい工作があったようです。

 そうした工作の是非はともかく、日本の議員が一度選ばれたら後は自動的に党議拘束による「匿名の一票」に成り下がるというのは、民意の反映という意味で問題があるのではないでしょうか? 旧自民党の中選挙区時代には、それでも各派閥のイデオロギーに一種の温度差があって、政調や党の委員会の中では多様な議論もあったようですし、当選年次別の政策会合などもありました。ですが、そうしたものが一掃されて、新人議員は発言も封じられている現在の与党の体制では、それこそ一票の重みを代表するべき議員一人一人の存在感はなくなっています。

 日本の場合、一部に「民主主義2・0」だと称して「ネットによる直接民主制」をという主張もありますが、それ以前に現在の党議拘束を止めて、代議制度が直接民意を代弁しない状況を何とかする方が先のように思います。ちなみに、直接民主制というのは、私は反対です。党派やイデオロギーといった集団のキャラ、政治家の信念や方向性といった個人のキャラによって、ある種の判断の一貫性を保つ工夫が消えてしまい、あらゆる判断がランダムになること、物理的に実行不能の結論に至った場合に判断を下した特定政治家や特定政党を批判して判断を修正することができないことなどから、意思決定方法としての効力の弱いシステムだと思うからです。

 医療保険改革の今後については、予断を許さない点は残っています。市場がどう反応するか、そして雇用情勢がどんな影響をうけるかも不透明です。ですが、画期的な議決を手にしたオバマ大統領の指導力は浮上する可能性が高いと思います。採決直前の最終弁論でペロシ下院議長(民主)が「ここまでやって来るのにはオバマ大統領の指導力あってのこと」と述べて喝采を浴びた一方で、ベイナー院内総務(共和)は「議場よ恥を知れ」と叫んで議長代行に不規則発言を注意される醜態を演じていました。この対比からも、政治的な勝敗はとりあえず明らかです。アメリカ政治は、ここに1つ大きな転換点を迎えました。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア

ビジネス

ベッセント長官、日韓との生産的な貿易協議を歓迎 米

ワールド

アングル:バングラ繊維産業、国内リサイクル能力向上

ワールド

ガザ支援搬入認めるようイスラエル首相に要請=トラン
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 7
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 8
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 9
    ビザ取消1300人超──アメリカで留学生の「粛清」進む
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story