コラム

オバマはどうして「90度のお辞儀」ができたのか?

2009年11月18日(水)12時51分

 オバマ大統領が訪日中、赤坂御所の天皇皇后両陛下を訪れた際に、車寄せでの初対面にあたって「90度のお辞儀」をしたというのが、話題になっています。私は見ていませんが、FOXニュースなどの保守系メディアが批判しているようです。確かにアメリカ人の半分ぐらいの人の感覚からすると、「自分の国を代表する大統領が、他国の元首に対して90度頭を下げるというのは、自分を含めたアメリカ人が卑屈になったよう」だということになると思います。

 その背景としては「お辞儀」という文化がアメリカにはないということがあります。政治家にしても、芸能人にしても、スピーチの前後に壇上でお辞儀をするということはありません。コンサートや、オペラ、演劇などで拍手に応えてのお辞儀はありますが、あれは「ヨーロッパから来た舞台上の特殊な習慣」という理解がされています。何よりも相手の目を見るのが礼儀であって、握手をするときも目線を下げてアイコンタクトを避けるのは失礼とされています。

 もう一つ、「お辞儀」についていえば、以前に糸井重里氏との対談の際にお話したのですがアメリカの黒人家庭では、子供に「人様に頭を下げてはいけないよ」という教育をする時代があったのです。人種としての尊厳を否定されていた世代が自由になった世代に対して「とにかく上を向いて生きろよ」という「躾(しつけ)」をしていたというわけですが、この点についても、バラク・オバマという人は全く気にしていないということが分かり、興味深かったのです。

 そのオバマのアイデンティティということでは、テンプル大学ジャパンの助教授であるジョン・マーサ・ミリキタニ氏という方が、面白い証言をしておられるそうです。経済評論家の吉崎達彦氏が「溜池通信」というサイトの2009年8月16日の「日記」で紹介されたものの孫引きなのですが、ハワイでオバマの2年後輩であったミリキタニ氏によれば、高校時代のオバマは「裕福な白人やアジア系の生徒たちと気ままに付き合い、(中略)人種/アイデンティティには無関心であった」というのです。

 ミリキタニ氏によれば、大統領選において黒人のアイデンティティを前面に出さずに戦えたのは、選挙戦略ではなく、そもそも若き日のオバマがそうしたアイデンティティについて無関心だったからだというのです。吉崎氏も、そんなミリキタニ氏の指摘を受けて、現在のオバマとのイメージギャップを語っておられますが、これも私に言わせればむしろ納得させられる話なのです。というのは、黒人社会ではないコミュニティや、多人種で構成された家庭などでは、黒人の血を引く子供に対して「人種を意識させない教育」を施すことがあるからです。

 黒人のアクセントを教えない、ネガティブな文脈で人種を話題にしない、人種差別的な感覚を持つ人を徹底的に遠ざける、といった行動を通して、子供をあらゆる差別やアイデンティティの危機から守り抜く教育とでも言いましょうか、恐らくオバマの人格形成に大きな影響を与えた、祖父母のスタンリー&マリリン・ダナム夫妻は、ハワイという土地でそのような態度で、娘とケニア人男性の間に生まれたバラク少年を育てたのだと思います。

 黒人コミュニティに見られる「頭を下げてはいけない」という教育、非黒人コミュニティにおける「黒人の子供に人種を意識させない」という教育、そのどちらも次世代に対する愛情から来ていることは間違いありません。ちなみに、少し以前までは「黒人アクセントを話さない黒人はニセモノ」という偏見から、この2つのコミュニティ出身者はなかなか「打ち解けない」ような雰囲気もあったのですが、今は他でもないオバマ大統領の登場ということもあって、そうした距離感は改善されています。

 そんなわけで「90度のお辞儀ができてしまった」ということは、オバマが受けてきた教育の特殊性の表れだと言えそうです。それが、異文化への柔軟な適応能力になっているのだと思います。ただ、平均的なアメリカ人には「国を代表する」という観点からの違和感が、そしてFOXは伝えていないようですが、黒人コミュニティ出身者からは「他の人種に頭を下げるのはどうも」というリアクションが出るかもしれません。これは仕方がないと思います。そんなわけで、いくらオバマのお辞儀が有名になったからといって、他のアメリカ人に「90度のお辞儀」を期待するのは止めた方が良いと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

金総書記、プーチン氏に新年メッセージ 朝ロ同盟を称

ワールド

タイとカンボジアが停戦で合意、72時間 紛争再燃に

ワールド

アングル:求人詐欺で戦場へ、ロシアの戦争に駆り出さ

ワールド

ロシアがキーウを大規模攻撃=ウクライナ当局
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「史上初の攻撃成功」の裏に、戦略的な「事前攻撃」
  • 2
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指すのは、真田広之とは「別の道」【独占インタビュー】
  • 3
    【世界を変える「透視」技術】数学の天才が開発...癌や電池の検査、石油探索、セキュリティゲートなど応用範囲は広大
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」と…
  • 6
    中国、米艦攻撃ミサイル能力を強化 米本土と日本が…
  • 7
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 8
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 9
    「衣装がしょぼすぎ...」ノーラン監督・最新作の予告…
  • 10
    【クイズ】世界で最も1人当たりの「ワイン消費量」が…
  • 1
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 2
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 3
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指すのは、真田広之とは「別の道」【独占インタビュー】
  • 4
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 5
    ウクライナ水中ドローンが、ロシア潜水艦を爆破...「…
  • 6
    中国、インドをWTOに提訴...一体なぜ?
  • 7
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 8
    海水魚も淡水魚も一緒に飼育でき、水交換も不要...ど…
  • 9
    批評家たちが選ぶ「2025年最高の映画」TOP10...満足…
  • 10
    アベノミクス以降の日本経済は「異常」だった...10年…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    90代でも元気な人が「必ず動かしている体の部位」とは何か...血管の名医がたどり着いた長生きの共通点
  • 3
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 4
    アジアの豊かな国ランキング、日本は6位──IMF予測
  • 5
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした…
  • 6
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    『SHOGUN 将軍』の成功は嬉しいが...岡田准一が目指…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story