コラム

「民法改正なきハーグ条約批准」をオバマに約束するな!

2009年11月13日(金)13時12分

 9月30日10月2日のエントリでお話した、国際離婚に関わる親権争いですが、今回のオバマ訪日の際に何らかの動きがあるかもしれません。というのは、子供を強制的に連れ出そうとして福岡県警に逮捕されていた父親のクリス・サボイ元容疑者が色々発言を始めているからです。サボイという男性は、いつの間にか不起訴処分になっていて、アメリカに帰国していたのです。そのサボイ元容疑者は、こともあろうにオバマ大統領が日本行きの専用機に乗り込む数時間前に、現在のエイミイ夫人と一緒に12日の朝にCNNの「独占インタビュー」に応じていました。

 詳しくは一カ月半前のエントリを参照していただきたいのですが、クリス・サボイという男性は14年間連れ添った日本人の元奥さんと離婚してアメリカ人女性と再婚する際に「共同親権」を維持したいために「元妻と子供たちを騙すようにしてアメリカに引っ越させ」た、報道を総合するとそう理解ができます。そこで離婚裁判をやって共同親権を手に入れ、同時に子供たちと元妻がテネシー州に住まわせていたのです。恐らくは屈辱的な生活にガマンできなくなったと思われる元妻が2人の子供と日本に帰国すると、テネシー州当局に告発して元妻に対して誘拐罪と逃亡罪の逮捕状を出させてもいます。更に、サボイ元容疑者は母子の暮らす福岡県柳川市に乗り込んで、子供をタクシーに乗せてアメリカ領事館に駆け込もうとして逮捕されたというわけです。

 この事件に関しては、当初は同じように「子供を日本に連れ帰られた」アメリカ人の父親や支援者たちがデモをしたとか、米国大使館から厳重な抗議が来たとかいう「ガイアツ」があったようですが、同じCNNによればサボイ元容疑者自身が日本に帰化していた、つまり日本人家族の国内問題であることから、米国国務省は一時期は静観の構えになっていたように見えました。ですが、その後も一部報道によれば、アメリカの上院議員22名が署名して(これは大変な権力の誇示です)抗議するなど、断続的に日本政府に圧力がかかっていたようです。

 このオバマ訪日直前のサボイ夫妻の「独占インタビュー」では、サボイ元容疑者は「私は釈放されたが、子供を奪還する見通しは全く立っていない。日本では親権は一方の親に行く制度となっており、戦前は父親側が、戦後は母親側が親権を取るのが主流で(このあたり、日本のことをかなり研究しているようです)親権のない方の親には面会権が確保されていない。私に関しては、逮捕拘禁された期間は、「ダイヨウカンゴク(代用監獄)」制度の下で弁護士の接見が制限される中、24時間照明のある劣悪な環境で尋問を受けた」とペラペラと喋っていました。エイミイ現夫人も「夫は(拘禁された経験のために)PTSDに苦しんでいます」などと「怒りのコメント」を加えていました。(取り調べの可視化のためにも私は代用監獄制度には反対です。こういう人物に批判されないためにも、一刻も早く「近代化」すべきだと思います)

 この問題ですが、もう一度確認をしておきますと、1980年に発効した国際離婚における親権の実行を定めた「ハーグ条約」に日本が加盟していないことが背景にあります。ハーグ条約では、離婚裁判の決定に反して子供を連れ去った場合は、国際間で子供を居住国に戻すことを定めています。

 ですが、日本の場合は、このハーグ条約の前提となる親権の考え方で、諸外国とは全く異なる制度となっているのがネックなのです。日本の場合は法制上、(1)子供の親権は一方の親が持つ(共同親権の制度がない)、(2)親権のない親の面会権が十分保証されていない(親権のある方の親が拒否すると強制できない)、(3)養育費の支払いが遅滞した場合に財産を差し押さえられない、という問題があります。これに加えて慣習上、(4)親権のない方の親が再婚した場合は面会権を放棄する、(5)余程の事がない限り母親の親権が優先される、といった暗黙のルールが存在します。これでは、ハーグ条約を批准することはできません。

 サボイ元容疑者が不起訴となって釈放され、今回のオバマ訪日にあわせて大々的にCNNでキャンペーンをはじめたということは、もしかすると鳩山首相=岡田外相コンビは、オバマ大統領に対して「ハーグ条約批准」を約束させられる、そんな取り引きがあるのかもしれません。また、訪日を意識してサボイ元容疑者を釈放したのではと言われても仕方がないと思います。これは大変な問題です。私は、諸制度を十分に整え、移行措置を考慮した上でハーグ条約批准を進めることには賛成ですが、今回のやり方には危機感を覚えます。

 まず、クリス・サボイ元容疑者を不起訴にしたにも関わらず、元妻に対する逮捕状の取り下げは呑ませていないという問題があります。この男性の場合は、恐らくは共同親権の得られない日本での離婚訴訟を忌避するために、元妻と子供を騙すようにしてテネシーへ連れて行き、突然離婚を切り出しているようです。ということはこの母子の居住国は日本であり、日本に戻すのが筋なのです。事件の全体像として、元妻がテネシー当局から重罪犯として逮捕状を執行されている理由はありません。この逮捕状を取り下げさせることなしにサボイ元容疑者を釈放したというのは、まるで明治の不平等条約の時代を思い起こさせます。外交としてあってはならないことだと思います。

 もう1つは、報道を通じて千葉景子法務大臣の一連の発言を調べてみますと、「ハーグ条約批准は親権の問題ではない。子供の幸福を優先に考える」として、民法改正をしないでハーグ条約批准を模索しているという姿勢が見て取れるのです。一部の報道によりますと、ハーグ条約を批准するために、次のような措置が検討されているようです。まず政府が窓口となり、子を連れ去られた親から申し立てを受けます。そして、裁判所の審査を経て、子を返還すべきだと判断した場合は連れ去った親に「返還命令」を出す流れ、だというのです。この体制を整えるためには、国家行政組織法改正や、裁判所が返還命令を出すための新たな特別法の制定が必要であり、それには2011年までかかるというコメントも出ているようです。

 冗談ではありません。「子を返還する」とはどういうことなのでしょう。この「子」というのは日本国籍を有する日本人なのです。日本人を外国に「返還する命令」というのは、一体どういう理屈なのでしょう。

 どうしてそうなるのかというと、日本の制度では共同親権は認められないし、また面会権の強制もできないからです。ですから、国際間の離婚紛争が起きた場合は「日本での民事法廷で離婚調停はできない」ことが前提になっているのです。できないものはできないのだから、日本人の親の方も外国で誠実に離婚調停をやって来なさい、その上で日本政府としては外国の離婚調停を尊重するので、万が一それに背いて日本に子供を連れ帰る事例があれば審査して、悪質なら(外国側が納得できないなら)子供を外国にいる親の方へ送致する、つまりはそういうことだと思います。

 千葉法相は恐らく、外国人の親の側に家庭内暴力や養育能力の問題があるような場合は「ケースバイケース」で拒否すれば良いと考えているのでしょう。子供の幸福云々という発言からは、そうした雰囲気が見て取れます。「政府の窓口機関」でそうした問題に判断を加えれば良いという気配です。私はこれでは実務的に回らないと思います。恐らく、そんな制度ができたら、アメリカ人の親の側は弁護士と外交ルートを使って圧力をかけて、やりたい放題になると思います。DVの証拠が明白で危険を回避するために日本へ避難したケース以外は、アメリカで裁判をしないで来た親、アメリカの判決に背いて帰国してしまった親のケースに関しては、ほとんどの事例(アメリカの国務省によれば現時点で145例あるそうです)で子供をアメリカへ取られてしまうでしょう。

 とにかく「返還」するのですから、今度は母子の間は引き裂かれることになります。日本国内には共同親権や、面会権の強制は制度としてないからです。となれば、母親は泣く泣く海を渡るしかありません。これでは、現状の改善にはほとんどなりません。「アメリカに戻す際には日本政府が強制力を持ってやってくれるから」ということで、共同親権や父親側の面会権を保証するためにアメリカに縛られている母子が「一時帰国」できるようになる、その程度でしょう。根本的な解決ではありません。

 とにかく、国際離婚の場合に日本で離婚調停が受けられるようにすべきです。その際にDVや養育義務不履行などの問題も、日本の法体系で制裁が可能であり、悪質な場合は刑事犯として処断する一方で、場合によってはハーグ条約に基づいて「略取された」日本人の子供を外国から奪還することができるようにしなくてはなりません。千葉法相は、何を考えているのでしょう? 夫婦別姓だけでも保守派との対決が面倒なのに、離婚法制まで手をつけたら民法改正が全部がダメになると思い詰めているのか、それとも共同親権制度を入れたら「悪い父親が子供に悪影響を与えるので、母親の権利の立場から反対」と思っているのかは分かりません。いずれにしても、法相の一存で「親権の問題ではないと理解しています」などと言うのは、余りに一方的です。

 男女共同参画を言うのなら、戦後続いた「父親達による集団ネグレクト」は緊急避難的なものとして見直しをかけ、父子の関係を母子と同等にする文化を育てるべきだと思います。その上で、仮に不幸な離婚のケースにおいても、共同親権や面会権を通じて父子の絆は最低切れないようにしてゆくことは、何も欧米の文化に屈したことにはならないのではないでしょうか。離婚に至るケースだけでなく、一般論としても、母系制や父系制の束縛から離れて、個としての親と子の良好な関係を通じて子の自尊感情を育むというのは、欧米化ではなく、もっと自然な社会の変化だと思うのです。

 そこまで大上段に振りかぶらなくても、少なくとも制度はそうした価値観を許容するようアップデートすべきです。それをしないことが文化的独立だと思い込むことで、却って諸外国から屈辱的な扱いを受け、しかも言われるままにそれに甘んじるというのは、やはり間違っていると思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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