コラム

異議あり、『貧困大国アメリカ』

2009年06月15日(月)12時54分

 堤未果さんという方の書いた『貧困大国アメリカ』(岩波新書)という本は、アメリカ社会の病理を描いた本として評価が高いようです。確かに、貧困層や移民が募兵制のターゲットにされていたり、民間会社による傭兵ビジネスが横行しているといった点に言及している部分は、私が長年JMMなどで取り上げてきたテーマでもあり、改めて紹介することには意味があると思います。  

 ですが、本書の多くの部分については、アメリカに長く住んでいる私には、どうしても違和感があるのです。一つには余りにも「最初に結論ありき」という書き方をしているために、事実関係の説明が不十分な点が多いことです。例えば冒頭にいきなり「サブプライムローンは貧困ビジネス」だという記述がありますが、まるでアメリカの住宅ローンが貧困層を食い物にしているといった印象を与えるのは事実に反すると思います。

 80年代から90年代初頭にかけて「住宅ローン審査における人種差別」を根絶するために、「その人のプロフィール」で貸す貸さないを判断することを堅く禁じ、あくまで過去の金融取引における信用履歴だけで信用度を判断する公平なシステムを作ってきたこと、ノン・リコース・ローンといって、住宅ローンが破綻した際に担保の価値が下がっていてもあくまで家を返せば責任を果たしたことになり、「借金だけが残った」という悲劇は避けられていること、こうした背景が一切語られないまま「貧困ビジネス」と決めつけられても、説得力はありません。

 学資ローンの問題も「大学の学費が高く、就職難で借金だけが残った」というケースばかりが紹介されていますが、アメリカの奨学金制度は「メリットベース」という成績や能力によって授与されるものと「ニードベース」といって、経済状態や支払い能力に基づく援助の二本立てになっており、この両者は厳格に区別されています。また、就職にあたっては「新卒一括採用」という硬直した制度がなく、また職種に役立つ学歴や能力以外の要素は「一切採用の合否に絡めてはならない」という厳しい慣行があります。

 そうした制度によって、貧富の差、性別、年齢、人種といった要素で教育と就職の機会が不平等にならないように制度が機能していること、特に年齢差別が禁じられていることから、人生を通じて何度も「セカンド・チャンス」が与えられるということは全く紹介されていません。そんな中で、不運な例ばかりが紹介されることで、日本が今後参考にしてゆかなくてはならない「機会均等」と「セカンドチャンスのある社会」という問題が一切語られないというのは何とももったいない話です。

 こうした点は政治的な立場を強調するためには、陥りがちな傾向として理解することもできないではありません。ですが、私にとって、どうしても理解できないのは、本書を通じてアメリカの「格差社会」や「貧困」が告発されているにも関わらず、実際に登場する貧困層の人々への「愛情」とか「連帯」という気持ちが感じられないという点です。

 例えば、貧困層が健康に悪い食事に偏ってしまうので肥満に陥っているという記述があります。確かに、アメリカでは、貧困と肥満という問題に関係があるという見方はあります。ですが、そこには様々な心の葛藤を通じて過食症になったり、あるいは家族の中に問題を抱えているなど、ケースバイケースの複雑な、そして人間くさい背景があるのです。そうした人々の苦悩のリアリティを一切無視して、「愚かな貧困層は騙されて栄養の偏った食事を取らされている」という観察で済ませてしまう感性は、私にはよく分かりません。

 具体的に言うと「マカロニチーズ」というメニューが不健康な食事の代表のように書かれていますが、この「マカロニチーズ」というのは基本的にはアメリカ人にとって「離乳食の次に子供が食べる栄養価の高い家族の味」であり、忙しい学生たちには夜食の楽しみであり、また田舎のホテルやレストランなどでは、手作りの素朴な味を売り物にしていたりもする食べ物なのです。一部のインスタント物には不健康なものもありますが、それはあくまでインスタントで、ホンモノは別にあるのです。

 これは言ってみれば日本の「かけそば」のようなもので、例えば外国人が「カケソバという雑穀で作ったヌードルを、醤油を溶かした塩辛いお湯に浮かべた貧しいスープ」などとバカにしたら、日本人なら気分を害すると思うのですが、それと同じことではないでしょうか。言ってみれば、旅行者が外国で食べた料理がたまたま口に合わずに悪印象を持った、その程度のこととしか思えません。

 どうして延々とこの『貧困大国アメリカ』へのネガティブな評価を書き続けたのかというと、そこには理由があります。それは、オバマ大統領が掲げる国際協調や、相互理解、あるいは環境対策など、アメリカには決して「新自由主義の一国主義」だけではない、リベラルの立場もあるのですが、日本のいわゆる「左翼」とか「労働運動」といった立場の人々は、このアメリカのリベラルと昔から折り合いが悪いのです。

 もしかしたらこの『貧困大国アメリカ』という本には、その日本の左翼とアメリカのリベラルの間にある「相性の悪さ」が何かを考えるヒントがあるのでは、私にはそんな期待があったのです。ですが、そうしたヒントはどこにもありませんでした。ただ、アメリカのネガティブな面ばかりが描かれ、その「悪いアメリカ」の「被害者であるアメリカ人」にも同情や連帯が感じられないというのでは、ひたすらに落胆するしかなかったのです。

*(お知らせ)今週水曜日(6月17日)の正午過ぎ「日経CNBC」(CSのTV放送)の『昼エキスプレス』という番組に出演します。オバマ大統領の経済政策の現状と、これに対するアメリカ社会の受け止め方についてお話する予定です。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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