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ヴェネツィア・ビエンナーレとは何か(1):水の都に集まる紳士と淑女
説明が前後したが、ビエンナーレの公式展示は2種に大別される。ひとつは上述した各国パビリオンにおける国別展示。もうひとつはディレクターが自らキュレーションを行う企画展。ビエンナーレの総合テーマは事前に発表されるが、そのときには各国パビリオンの作家が決まっていることも多く、総合テーマはディレクターの企画展のためのものと考えてよい。メディアの批判が集中したのはその企画展に対してである。
業界内で評価の高いナイジェリア出身のディレクター、オクウィ・エンヴェゾーが採用・主唱した総合テーマは「All the World's Futures」(世界のすべての未来)だ。「未来」が複数形になっているところがミソで、「未来たち」は必ずしも薔薇色ではないし、均一でもない。非常に政治的で社会的、もっと正確に言えばラディカルなまでに左翼的な展示であり、カタログに収録されたステートメントにもその傾向は明確に示されている。
冒頭に引用されるのは、ナチスに追われて1940年に服毒自殺したユダヤ人批評家、ヴァルター・ベンヤミンの評論『歴史哲学テーゼ』の一節。「新しい天使」と題されたパウル・クレーの絵についての文章だ。天使は未来に背を向け、過去の破局を見つめている。破局は瓦礫の上に瓦礫を積み重ね、それを彼に向かって投げてくる。天使はそこにとどまりたいが、楽園から嵐が吹きつけていて、行きたくもない未来のほうへ押し流されてゆく。眼前には瓦礫の山が積み上がって、天にも届かんばかり......(大意)。ベンヤミンはこの絵を死に至るまで携行していたが、エンヴェゾーが引く彼の言葉は次の一文で閉じられる。「私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ」
それに続く本文では「アートには何の義務もない。社会問題や批評的な政治関与へのあらゆるアピールに対し、口を閉ざし、耳をふさいだままでいることをいつでも選択できる」との一般論がまずは述べられる。だが、実際の展示は口も耳も開いた作品ばかりだ。ジャルディーニにある「セントラルパビリオン」に入って最初に出迎えてくれるのはファビオ・マウリのインスタレーション。天に延びた梯子の向こうに古い旅行鞄がいくつも積み重ねられていて、瓦礫の山に見えなくもない。隅のほうに半裸の女性のモノクロ写真があり、胸にはダヴィデの星の刺青が入れられている。強制収容所に送られ、身ぐるみ剥がされた上で殺された、ユダヤ人を追悼する作品であることは誰にでもわかる。エンヴェゾーは、自らの企画展の起点に、20世紀最大の狂気を主題にしたアートを置いたのだ。
この筆者のコラム
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