コラム

黒田日銀が物価目標達成を延期した真の理由

2016年11月25日(金)18時10分

強固なデフレ予想を打ち砕く苦肉の策だった「2年」という約束

 2013年4月に発足した黒田日銀は、インフレ率2%目標の達成を「2年以内」に実現するという約束を行った。日銀はそこで、各国中央銀行が避けてきた「期限の約束」をあえて行ったのである。それは、20年にわたるデフレ不況によって人々の心理に強く定着したデフレマインド、デフレは今後も続くだろうという人々のデフレ予想を打ち砕くには、そのような形の達成期限の約束がどうしても必要だったからである。

 一口に2%のインフレ目標とはいっても、FRBやECBと黒田日銀とでは、その初期条件に大きな相違があった。それは、不況下でもインフレが維持されていた欧米とは異なり、黒田日銀がインフレ目標を達成するためには、まずは「デフレ脱却」を実現しなければならなかったという点である。そして、それは決して容易なことではなかった。

 デフレが深刻化した1990年代末以降、歴代政権はこぞってデフレ脱却を政策課題に掲げてきた。しかし、黒田以前の日銀が金融緩和に消極的だったこともあり、日本経済は結局、デフレ脱却を達成しないままにリーマン・ショック後の世界不況を迎えたのである。それは日本経済にとって、デフレ脱却という課題の達成がより遠のいたことを意味した。

 デフレの厄介さは、それが人々の心理に定着すると、それがデフレをさらに強化してしまう点にある。物価が今後とも下落し続けると人々が予想するなら、人々はモノの購入をなるべく先送りしようとする。その結果、企業は将来への投資をなるべく手控えようとする。それらは、経済をさらに収縮させる。つまり、デフレはデフレを呼ぶわけである。

 1990年代末以降の日本経済が、こうしたデフレの罠に陥っていたとするならば、そこからの脱却には、何よりも「人々のデフレ予想を打ち砕く」ことが必要になる。それは、物価の調整に最も大きな責任を持つ中央銀行が、「金融緩和を通じて必ずインフレを実現させる」ということを人々に信じ込ませる以外にはない。そして、そのためにはどうしても、それをいつまでに実現させるという「期限の約束」が必要となる。というのは、中央銀行がいくら口でデフレからインフレにするといっても、その実現が10年先とか20年先というのであれば、それは「当面はデフレが続く」という意味でしかないからである。それでは、人々のデフレ予想を打ち砕くどころか、逆にそれを強めることになりかねない。

 以上のような理由から、黒田日銀はその発足時に、インフレ率2%を2年で達成するという、中央銀行としては異例の達成期限の約束を行った。そしてそれは、予想以上の成功を収めた。金融政策の変更はまずは金利や為替や資産価格に現れるが、それを契機に、金利低下、為替の円安、株価上昇が非連続的な形で生じたからである。とりわけ、日銀の政策変更を見越して既に進んでいた円安トレンドがそこで確定的になったことは大きかった。それらは明らかに、2014年4月の消費税増税まで続いた景気回復の支えとなった。

「3%台半ば」と想定されていた日本の完全雇用失業率

 ところが、現実経済が黒田日銀の事前の想定通りに進んだのはここまでであった。それ以降は、日本の消費税増税による予想外の消費減少、株価バブル崩壊による中国経済の急減速、原油価格の暴落に伴う世界的経済混乱、FRBの利上げペースの遅れ、それらを原因とする円安から円高への反転など、事前には想定されていなかったマイナスのショックが連続的に生じた。その結果、黒田日銀は、本年11月1日の決定も含めて、5回にわたる「目標達成期限の延期」を余儀なくされたのである。

 筆者はしかし、この黒田日銀による目標延期の背後には、より本質的な不確実性が横たわっていたと考える。それは、「完全雇用が達成されたと考えられる失業率が実際にどの程度なのかは、事前には分からない」という、想定誤差の不確実性である。

 いうまでもないことであるが、現実の経済においては、失業率がゼロという文字通りの完全雇用はあり得ない。たとえ景気がどれだけ過熱していても、労働者がそれまでの仕事に不満で離職して別の職を捜していたり、企業が事業の再編のために労働者を解雇したりすることは常に生じ得るからである。ただし、その失業率があまりにも低下し過ぎると、人手不足から労働市場が売り手市場になり、賃金と物価が上昇し始める。そこで、インフレ率を加速させないぎりぎりの失業率が達成されれば、それは事実上の完全雇用と想定できる。それが、インフレ非加速的失業率、すなわちNAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)である。

【参考記事】日銀は国内景気の低迷を直視せよ!

 端的にいえば、金融政策や財政政策などのマクロ経済政策の究極の目的は、この「完全雇用と考えられる失業率」を達成し維持することである。ゆえに、それがどの程度の値かを見極めることは、マクロ政策運営にとってきわめて重要である。しかしながら、その完全雇用失業率は、現実の失業率に何らかの操作をして推計する以外にはない。そのため、日銀、内閣府、各大学、民間の研究所等に属する数多くのエコノミストが、その推計に携わっている。その多くは、NAIRUそのものというよりは、需要不足失業率と区別された構造的失業率や、マクロ経済全体の需要不足の程度を表す「需給ギャップ」の推計であるが、現実経済が完全雇用からどれだけ離れているかを示すという、その狙いは同じである。

 そうした推計の多くは、ごく最近まで、「日本の完全雇用失業率の値は3.5〜3.7%程度」としてきたのである。この「日本の完全雇用失業率=3%台半ば」という思い込みの呪縛はきわめて強く、2016年末現在でもまだ、この数字を鵜呑みにして「日本経済は既に完全雇用にある」と主張するエコノミストが存在するほどである。

 おそらく、黒田日銀が物価目標を2年で達成するという当初の計画の前提にしていたのも、やはりこの想定であった。事実、黒田総裁は、2014年4月8日の総裁記者会見で、「政府が出している完全失業率は3.6%で、総裁は前から完全雇用に近づいているとおっしゃっていますが、日銀が試算している構造的失業率は大体どれくらいなのでしょうか」と問われて、「私どもの推計によると、構造的失業率は3%台半ばと思っており、3.6%という失業率はそれに近い、ほぼ等しいくらいになっていると思います」「(需給)ギャップがゼロのところに近付いているとみています」と答えていたのである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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