コラム

ハリス先生は日本兵だった

2011年07月20日(水)09時00分

「実はね、ハリス先生は今から40年前、日本兵として中国で戦っていたんです」

 1986年の、確か夏ごろのこと。当時北陸の片田舎で受験勉強する高校生だった筆者は、いつも聞いている旺文社「大学受験ラジオ講座」の外国人講師が、唐突に担当する英単語講座と関係ないことを話し始めたのに驚かされた。「それでね、そのころのことを書いた本が今度出版されることになったんです」。特徴のある低音で、続けてそんな説明があったように記憶している。

 ジェームズ・B・ハリス。日本名・平柳秀夫。

 ハリス先生(今も、なんとなく呼び捨てにできない)は1916年、ロンドン・タイムズ極東特派員だったイギリス人の父と日本人の母の間に生まれた。16歳のとき父親が急死し、母親と同じ日本人「平柳秀夫」になることを選択。横浜のインターナショナル・スクールを卒業したあと、英字紙ジャパン・タイムズの記者として働いていたが、日本国籍をもっていたため太平洋戦争開戦後に徴兵され、日本軍の一兵士として中国河南省で戦い、終戦の翌年46年にようやく帰国した。

 帰国後はジャパン・タイムズに復帰して東京裁判を取材した後、米誌フォーチュンに移り、58年からラジオの英語講座『百万人の英語』で講師を務めた。40歳以上の日本人には「ラ講」講師としてのハリス先生の印象の方が強いかもしれない。

 ハリス先生は欧米人としての価値観を持ちながら、戦前の日本人の文化や価値観が極端な形で凝縮された日本軍という場所に飛び込む数奇な体験をした人物だ。86年に出版したその著書『ぼくは日本兵だった』(旺文社)は、文明の衝突だけでなく、文明の融和をめぐる貴重なエピソードであふれている。形は日本人・平柳秀夫だがイギリス人の容貌と心をもち続けようとしたハリス先生は、文明の衝突と融和から逃げることをせず、文字通り「struggle of mind(精神の葛藤)」を続けた。

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「ぼくは日本兵だった」の表表紙

 日本人ばかりの軍隊の中で、見た目がほぼ欧米人のハリス先生は「火星人」だ。手入れを怠ったため、「天皇陛下から賜った武器」である三八式歩兵銃にお詫びをさせられる軍隊の異様さに目を白黒させるが、上官は理不尽な理由で「ビンタをとる」鬼の下士官ばかりでなく、中にはハリス先生の特殊な事情を理解して極力助けようとする「守護天使」のような人物もいる。厳しすぎる訓練も、ハリス先生の目には「部下を強くし、1日も早く実戦に耐えられるようにしようと一生懸命」なゆえ、と映る。

 小銃の弾丸が頭の上をかすめる「火の洗礼」を受けたときには、恐怖のあまり気付かないうちにシャベルで穴を掘って頭を突っ込んでいたハリス先生も次第に戦闘に慣れていく。日本軍の要塞にはしごをかけて登ってくる八路軍(共産軍)の兵士を銃剣で突く様子を、先生はこう記している。


 銃剣が相手の肉体に突き刺さるときの感触は、なんともいえずいやなものだった。ぼくが何人殺したかわからないが、返り血を浴びて頭から足の先までまっ赤に染まっていることなど、まったく気がつかなかった。

 欧米文化のバックグラウンドを持ちながら、日本の軍隊組織に組み込まれたほかの「青い目の日本兵」との出会いの記述もある。1人は新聞記者時代の知り合いで、父親がアメリカ人、母親が日本人の元朝日新聞航空パイロット。ハリス先生と同じく日本国籍ゆえに徴兵された「白人二等兵」だった。もう1人は河南省で出会った父親が日本人、母親がドイツ人の男性。同盟国であるドイツ国籍だったことから軍に重用され、後にハリス先生も働くことになる特務機関で米軍の暗号解読に当たっていた。

 この本が出版された80年代半ばの日本には、まだ戦争の辛い記憶が個人と社会全体を支配していた。それでもハリス先生のこの本にどことなく明るく楽観的なムードが漂っているのは、先生個人の性格だけでなく、あの戦争や日本の兵士が必ずしも暗く、不幸なばかりの存在でもなかったことをどこか反映している。65年前の日本人も今の日本人も、人間性の本質に大きな差はない。戦争であれ軍隊であれ、ステレオタイプな見方で切り取ってしまうとかえって見えなくなる真実もある。

 ハリス先生は当時英語でこっそりつけていた日記を帰国直前に廃棄させられた。だから、あとがきを含め245ページのこの内容の詰まった本は、すべて記憶だけを頼りに書かれている。しゃべるのに苦労はなくても、日本語の読み書きはほぼできなかったというハリス先生は、日本語の音だけでほぼすべてを覚えていたわけだ。記憶力も観察眼も特筆すべきレベルだが、それだけ特異な体験の連続だったのだろう。

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「ぼくは日本兵だった」の裏表紙

 ハリス先生自身は04年に病気で他界されている(DJのロバート・ハリス氏は先生の長男だ)。四半世紀ぶりに思い立って古書を探したのだが、あっと言う間に読了した。それぐらい中身の詰まった面白い本だった。

――編集部・長岡義博(@nagaoka1969)

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