コラム

無罪確定の袴田巖さんを22年取材した『拳と祈り』は1つの集大成

2024年10月19日(土)12時51分

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<『拳と祈り』は巌さんや秀子さんの素顔を捉えたウェルメイドなドキュメンタリー。再審無罪が確定した今、捜査機関による証拠捏造について明らかにすべきだ>

58年間自由を奪われてきた袴田巌さんの再審無罪判決が確定した。まずは本当に良かった。それは大前提。

その上で考える。袴田さんについては、とても例外的にメディアが報道を続けてきた。テレビや新聞だけではない。映画においても、金聖雄(キム・ソンウン)監督や東海テレビを筆頭に多くのドキュメンタリーが制作され、高橋伴明監督は一審裁判官で無罪を主張し続けた熊本典道を視点にした劇映画『BOX 袴田事件 命とは』を公開している。生前の熊本元裁判官には僕も何度か会った。ずっと自分を責めていた。袴田君を救いたいだけですと涙声でいつも言っていた。


とにかく関心は高い。ずっとトップニュースだ。だからこそ懸念がある。これほどに突出した事案だからこそ、袴田事件のような冤罪はあくまでも例外的だと思ってしまう人は少なくないはずだ。

実のところ冤罪はとても多い。今年は「飯塚事件」と「和歌山毒物カレー事件」を題材にしたドキュメンタリー映画『正義の行方』と『マミー』が公開された。これは現在進行形。そして1980年代には、袴田さんと同じく死刑が確定した4件の裁判で再審が認められ、その全てが冤罪であったことが確定した。

ただしそれ以降、つまり今回の袴田事件再審無罪確定までの35年間にわたり、死刑判決が確定しながら冤罪であることが認定された事案は1つもない。理由は単純。司法がより精密になったから? 違うよ。再審を認めなくなったからだ。

想像だけど再審で無罪が確定するたびに、裁判所や検察庁は誰が責任を取るのかとパニックになっただろう。これほどに誤判が相次ぐなら組織として持たない。ならばどうするか。再審を受理しなければいいのだ。

こうして日本の刑事司法は、判決の正確さや人権の尊重よりも組織防衛を優先し、再審をほぼ認めなくなった。ラクダが針の穴を通るより難しい、とは再審について法曹界で使われる慣用句だが、これを聞くたびに嘆息したくなる。だってラクダは針の穴を絶対に通れない。

『拳(けん)と祈り ─袴田巖の生涯─』はとてもウェルメイドなドキュメンタリーだ。事件についての描写も、的確で丁寧だ。特に(テレビのニュースなどでは断片的に聞いていた)取り調べの際の録音を改めてじっくり聞いて、きっとあなたはあきれるはずだ。

22年という長期にわたる取材が、これまで観たことがない巌さんや秀子さんの素顔を捉えている。1つの集大成と言えるかもしれない。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

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