コラム
東京に住む外国人によるリレーコラムTOKYO EYE
忙しい東京人を支える至福のおにぎりタイム
今週のコラムニスト:マイケル・プロンコ
〔2月22日号掲載〕
ある日の午後、湘南新宿ラインに乗ってうとうとしていたら、夢うつつに海岸が見えた。はっとして目をしばたたき、なぜ海の夢をと不思議に思って辺りを見回すと、すぐ近くで若い女性がサケのおにぎりにかじりついていた。
彼女は済まなそうに会釈したけれど、東京ではおにぎりは人前で食べても構わないものの1つかもしれない。おにぎりは東京暮らしにうってつけのエネルギー源であり、ストレス解消法である。
持ち運びできて実用的なおにぎりは、100円硬貨並みに普及している。1個か2個かばんに放り込んでおけば、いつでもどこでも食べられる。私が少し早めに教室に行くと、学生たちは急いでおにぎりを包んでかばんに押し込む。授業の後で取り出してまたかぶりつくのだ。
どんな日でも、東京人の半数はおにぎりを手にしているんじゃないだろうか。コンビニでは冷蔵ケースの白い棚に並び、急いでいる客がさっと取れるようになっている。ほとんどの店で一番長い壁に沿った特等席に陣取っているおにぎりに比べたら、弁当でさえかさばって不便に思える。朝から毎日、大量のおにぎりがせっせと作られている光景を私は思う。おにぎりメーカーがストを起こしたら、東京は機能しなくなるだろう。
米にのりや魚に梅干しと、日本料理に欠かせない食材を組み合わせたおにぎりは、日本の食文化における俳句のようだ。創意工夫にあふれた東京の消費者市場に駆り立てられて、おにぎり文化は拡大してきた。ツナやマヨネーズ、グルメが喜ぶ照り焼きや炭火焼きチキンといった変わり種もある。しかしおにぎりは基本が大事──最高の味付けは空腹だ。
そうはいっても手触りも重要だ。手に持ったときの、ストレス解消用のボールのような感触がとてもいい。のりがしけるのを防ぎ、手で持って食べられるようにする折り紙のようなフィルム、あれを考案した人は人間国宝に認定されるべきだ。東京ではみんな1日にたくさんの物に触れるが、本当に満足感を味わえるのは携帯電話とおにぎりだけかもしれない。
■1人の人間に戻れるひととき
おにぎりはサンドイッチに近い。でも、日本の心が籠もっていないサンドイッチがおにぎりに取って代わることはないだろう。サンドイッチはアメリカ的過ぎる──オープンでかさばってばらけやすい。食べるときには大口を開ける。東京の文化にはおにぎりのほうがはるかに合う──コンパクトできちんとして、少しずつかじれて、中に小さな具が隠れている。それは食べ物というより日々の文化的習慣である。
おにぎりは平安時代からあるんだぞ、と酔っぱらったサラリーマンが深夜に焼きおにぎりを食べながら話してくれたことがある。東海道を行き交う武士や飛脚もおにぎりを持っていた。東京のせわしなさには武士や飛脚の気質の名残もあるかもしれないが、忙しい日の東京人にとってはおにぎりだけが伝統文化とのつながりかもしれない。
東京人がおにぎりを頬張ってひと息ついている姿はいいものだ。公園のベンチや駅のプラットホームで、片手におにぎり、片手にお茶を持ってくつろいでいる人を見ると、都会の風景に埋没していた個人がふいに浮き上がってくる。
物価が高くて、世界のグルメ料理がより取り見取りの東京でおにぎりを食べるのは、手っ取り早い反乱だ。大量消費の波に流されるのを拒み、東京の街の複雑さに逆らって、「ちょっと腰を下ろしてひと握りのご飯を食べられれば、ほかは何も要らない」と言うようなものだ。
その特別なおにぎりタイムにほんの何口かかじりつき、東京人はようやく、最も基本的な欲求を満たすことができる。奥深くに隠されたささやかなごちそうとともに満足感をかみしめながら。
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