コラム

内部告発を促進する「トーア」の活用を急げ

2013年05月21日(火)13時47分

 雑誌の『ニューヨーカー』が、内部告発を匿名で行えるネット上の投稿箱を設置した。投稿箱は「ストロングボックス」という名前で、機密情報の公開サイト「ウィキリークス」と同じく「トーア(Tor)」という幾層にも暗号化されるネットワークのしくみを利用している。ストロングボックスを利用して投稿されたドキュメントなどは、『ニューヨーカー』誌自身にも送り手がわからないため、内部告発者の身元を秘密に保つことができる。従って、当局がメディア会社にプレッシャーをかけて告発者が誰だったかを明かすよう迫っても、それができないわけだ。

 ストロングボックスは、トーア・ネットワークに加えて、『ニューヨーカー』誌の出版社であるコンデナスト社のものからは隔離されたサーバー、ネット接続されていないコンピュータ、サムドライブなど、いくつものテクノロジーの層と手続きによって成り立っている。告発者は投稿すると同時にコードネームが与えられ、その後のニューヨーカー誌とのやりとりもそのコードネームによってトーア・ネットワーク上で行われる。

 インターネットを利用した内部告発のしくみはウィキリークスによって広く知られるようになったので、これは国際関係や国防情報など国家レベルの機密情報を投稿するためのものと思われがちだ。だが、内部告発という意味では、その種はわれわれの日常生活のまわりにたくさんある。

 たとえば、企業内での会計改ざんや地方行政における賄賂問題、近所の暴力事件など、実情を知っている人はいても自分では名乗り出られないために、隠蔽されている犯罪もたくさんある。そうした時に、ストロングボックスのようなしくみがあれば、自分の身元を明かさずにメディアに事件を知らせ、メディアが調査報道を行って犯罪の実態を解明していくということができるわけだ。そのメディアが追跡調査をフェアに行ってくれるだろうという信頼が、まずは必要なことは言うまでもない。

 ウィキリークスへ国防関連の機密情報を漏洩したブラッドリー・マニング上等兵は、当初ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズに情報を届けたかったのだが、それを匿名で行うことができずにあきらめたという経緯があるという。そこで、ウィキリークスへ投稿を行った。

 本来は、メディアがこうしたしくみを持つことによって、情報をオープンにし、民主主義を護り、社会の公平を監視するジャーナリズムの役割が果たせるわけだが、残念なことにメディア企業は必ずしもテクノロジーの点で先端を走っているわけではない。このたびの『ニューヨーカー』誌の例に見られるように、ようやく追いついてきたというのが実情だろう。

 実は、こうしたしくみを備えたのは、『ニューヨーカー』誌が初めてではない。数年前にウォールストリート・ジャーナルや、中東のメディアである「アルジャジーラ」も内部告発を受けるしくみを発表した。ただ、そのしくみをセキュリティー専門家らが試したところいくつもの穴が見つかり、不完全さが批判された。その後は改良が加えられている模様で、また今回の『ニューヨーカー』誌のしくみは、専門家らの評価も高いという。この手のしくみが強度を上げていくのは、こうした専門家や良心的なハッカーらのおかげでもある。

 ちなみに、ウィキリークスのケースでは、後に漏洩した当人としてマニング上等兵が浮かび上がってきたのは、ウィキリークスのしくみが脆弱だったためではなく、マニング自身の不注意さと、彼を当局に差し出したある元ハッカーのジャーナリストの仕業とされている。

 折しも、アメリカでは今、機密情報漏洩とメディアをめぐってある問題が起こっている。昨年、AP(アソシエートプレス)のジャーナリストにイラクでの戦略計画を漏洩したCIA職員は誰かを突き止めるために、司法省が20人のAPジャーナリストの自宅や会社、携帯電話での通話記録を抑えたというのだ。その漏洩情報が実際にどれほどアメリカ国民を危険に陥らせる重要性を持っていたのかと同時に、司法省の行き過ぎたやり方に疑問が高まっているところだ。

 そして、実は日本も無関係ではない。日本の警察庁が今、ISP各社に向けてトーアの利用を遮断するよう促しているというのだ。チャイルド・ポルノなど匿名で行われるサイバー犯罪を防止するために有識者会議の判断にならったものらしいが、トーアを遮断してしまっては、内部告発を可能にするしくみまで一緒に不能にすることになる。それではまるで警察国家だ。アメリカのテクノロジー関連のメディアでは、警察庁のテクノロジー・オンチさを批判する声が多く上がっている。

 だが、一般のわれわれも、こうしたしくみに関する知識や理解を深める必要があることは確かだ。同じトーア・ネットワークが良い目的にも悪い目的にも利用され得ることはもとより、機密情報漏洩、内部告発、国家安全、情報公開などの間の複雑な線引きを理解しなければならない。それは、決して簡単ではない。


プロフィール

瀧口範子

フリーランスの編集者・ジャーナリスト。シリコンバレー在住。テクノロジー、ビジネス、政治、文化、社会一般に関する記事を新聞、雑誌に幅広く寄稿する。著書に『なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか? 世界一IQが高い町の「壁なし」思考習慣』、『行動主義: レム・コールハース ドキュメント』『にほんの建築家: 伊東豊雄観察記』、訳書に『ソフトウェアの達人たち: 認知科学からのアプローチ(テリー・ウィノグラード編著)』などがある。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

中国8月貿易統計、輸出は予想外に伸び加速 内需低迷

ビジネス

ブラジル決済システム「ピックス」、来年にもクレカを

ワールド

情報BOX:米大統領選候補者テレビ討論会の見どころ

ワールド

米大統領候補、10日の討論会で初対決 会場付近は厳
MAGAZINE
特集:ニュースが分かる ユダヤ超入門
特集:ニュースが分かる ユダヤ超入門
2024年9月17日/2024年9月24日号(9/10発売)

ユダヤ人とは何なのか? なぜ世界に離散したのか? 優秀な人材を輩出した理由は? ユダヤを知れば世界が分かる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「まるで別人」「ボンドの面影ゼロ」ダニエル・クレイグの新髪型が賛否両論...イメチェンの理由は?
  • 2
    ロシア国内の「黒海艦隊」基地を、ウクライナ「水上ドローン」が襲撃...攻撃の様子捉えた動画が拡散
  • 3
    メーガン妃が自身の国際的影響力について語る...「単にイヤリングをつけるだけ」
  • 4
    非喫煙者も「喫煙所が足りない」と思っていた──喫煙…
  • 5
    ウクライナ水上ドローンが、ヘリからの機銃掃射を「…
  • 6
    歯にダメージを与える4つの「間違った歯磨き」とは?…
  • 7
    伝統のカヌーでマオリの王を送る...通例から外れ、王…
  • 8
    「令和の米騒動」その真相...「不作のほうが売上高が…
  • 9
    強烈な炎を吐くウクライナ「新型ドローン兵器」、ロ…
  • 10
    国立西洋美術館『モネ 睡蓮のとき』 鑑賞チケット5組…
  • 1
    「まるで別人」「ボンドの面影ゼロ」ダニエル・クレイグの新髪型が賛否両論...イメチェンの理由は?
  • 2
    森ごと焼き尽くす...ウクライナの「火炎放射ドローン」がロシア陣地を襲う衝撃シーン
  • 3
    国立西洋美術館『モネ 睡蓮のとき』 鑑賞チケット5組10名様プレゼント
  • 4
    【現地観戦】「中国代表は警察に通報すべき」「10元…
  • 5
    エルサレムで発見された2700年前の「守護精霊印章」.…
  • 6
    「令和の米騒動」その真相...「不作のほうが売上高が…
  • 7
    中国の製造業に「衰退の兆し」日本が辿った道との3つ…
  • 8
    世界最低レベルの出生率に悩む韓国...フィリピンから…
  • 9
    「私ならその車を売る」「燃やすなら今」修理から戻…
  • 10
    エリート会社員が1600万で買ったマレーシアのマンシ…
  • 1
    ウクライナの越境攻撃で大混乱か...クルスク州でロシア軍が誤って「味方に爆撃」した決定的瞬間
  • 2
    寿命が延びる「簡単な秘訣」を研究者が明かす【最新研究】
  • 3
    エリート会社員が1600万で買ったマレーシアのマンションは、10年後どうなった?「海外不動産」投資のリアル事情
  • 4
    電子レンジは「バクテリアの温床」...どう掃除すれば…
  • 5
    ハッチから侵入...ウクライナのFPVドローンがロシア…
  • 6
    年収分布で分かる「自分の年収は高いのか、低いのか」
  • 7
    日本とは全然違う...フランスで「制服」導入も学生は…
  • 8
    「棺桶みたい...」客室乗務員がフライト中に眠る「秘…
  • 9
    「まるで別人」「ボンドの面影ゼロ」ダニエル・クレ…
  • 10
    ウクライナ軍のクルスク侵攻はロシアの罠か
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story