サウディアラビアの宗派間緊張に火がつくか
「イスラーム国」(IS)の脅威が、本丸に迫っている。
5月22日、サウディアラビア東部のシーア派人口の多いカディーフ市で、シーア派モスクが自爆攻撃によって攻撃され、21人が死亡した。それから一週間後の29日には、同じくシーア派人口の多いダンマン (ダンマーム)市でモスクが攻撃され、4人が死亡した。ダンマンはサウディ最大の油田地帯の中心都市にあたり、同国第二の港として日本の石油業界関係者にもなじみの深い街だ。
この攻撃を実施したのはISだ、と犯行声明が出されている。イラクとシリアを舞台とするだけでなく、サウディの油田地帯を燃え上がらせるようなことになれば、その影響はこれまでの比ではない。ペルシア湾岸の「有事」が絵空事ではない、前代未聞の大混乱が生まれる。
ただ、ISが本丸に迫った、というのは、油田地帯に来たから、というのではない。ISのみならず現代のさまざまなイスラーム武闘派が出現する遠因を、多かれ少なかれ抱えているサウディアラビア。「イスラームの聖地の守護者」を自認するサウード王家が君臨するからこその、サウディアラビア。その王政がこれまで保ってきた危うい宗派間のバランスを、ISが直撃したからだ。
サウディアラビアが東部油田地帯に多くのシーア派人口を抱えてきたことは、王国のアキレス腱として長く懸念材料とされてきた。王国が掲げるワッハーブ派は、長くシーア派を「異端」とみなしてきた。だが、実際の政策では、シーア派社会を完全否定するわけにも、徹底弾圧するわけにもいかない。きわめて限定的ではあるが、王政はそれなりのシーア派の「権利」を認めてきた。東部シーア派社会ではワッハーブ派に基づいた司法が適用されるのではなく、一部シーア派の裁判権が認められている。またイラク戦争後、サウディでは、「中東を民主化する」という当時のブッシュ米政権の旗振りに呼応してか、地方評議会が設置され、選挙が導入されたが、東部のカティーフ州とハサ州ではシーア派議員が州評議会に選ばれた。シーア派の代表的な儀礼、アーシューラーも、制約の下とはいえ、一応行われるようになっていた。そして、そうした王国の政策に、地元シーア派社会もそれなりに適応してきたのである。
だが、王政の根っこには、「シーア派社会がイランに同調してサウディの安全保障を脅かしたら、どうしよう」という、トラウマともいうべき危惧がある。イラン革命しかり、バハレーンでの反政府暴動しかり、そして最近ではイエメンでのホーシー派による政権奪取しかり。サウディアラビアにとっては、これらが全部、「シーア派=イランの陰謀」に見える。
サウディアラビアのシーア派は、そんなにイランとつながっているのか、という疑問に対して、最近のペルシア湾岸諸国研究は、「ノー」と言う。興味深いことに、近年立て続けに、ペルシア湾岸諸国のシーア派や宗派対立についての研究書(英語)が出版されているが、いずれも、イランに直接影響を受けたのはイラン革命(1979年)の直後の数年だけ、と指摘する。90年代はイランとサウディアラビアの関係が改善したり、湾岸諸国で影響力を誇った「シーラージ派」と呼ばれるイラク系シーア派組織が、それまで庇護を受けていたイランやイラクで急速に力を失ったりして、湾岸各国のシーア派社会はむしろ、地元政府とうまくやっていくことに力点を置いてきた。
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