コラム

人質殺害事件に寄せて

2015年02月01日(日)14時21分

 日本人人質事件は、残念な結果になった。

 昨年六月に登場して以来、その残虐さで国際社会を震撼させてきた「イスラーム国」が、いかに深刻な問題かを、日本は遅ればせながら実感したことになる。

 この問題について、筆者はあまり語ってこなかった。少ない情報で、しかも人命がかかっていることで、あれこれ語ることがいいとは思えなかったからだ。この事件に関する日本の報道を見ていると、解決に逆効果をもたらしたのではないかと懸念する。

 そもそも、国内の普通の誘拐事件だったら、ここまで情報や憶測を垂れ流しにしただろうか。こうすればよい、ああすればよい、といったコメントが、いちいち日本側の手の内、対応を犯人に晒しているとの自覚はなかったのだろうか。

 犯人が海外だから、日本国内で交わされる議論は聞こえないとでも思っているのかもしれない。だが、ネットに掲載される情報は日本語でも簡単に自動翻訳にかけられるし、テレビ画像でもYouTubeなどに乗れば、世界各地で見られる。日本語で行われる議論は日本国内でしか消費されない、と思い込んでいるとすれば、大きな間違いだ。日本のメディアの間で、その発言が英語やアラビア語に翻訳されたら犯人にどのように伝わるか、自覚した上でなされた報道は、はたしてどれだけあっただろうか。

 それは、ヨルダンを巻き込んでから顕著だ。「イスラーム国」対策では微妙な立ち位置にあるヨルダンは、自国民の人質事件について、水面下で慎重に進めてきた。それが、日本が絡んできたことで、大量のメディアがヨルダンに押し掛け、ヨルダン側の出方を詮索し追求し、話せないことまでも話せと強要する。「イスラーム国」にしてみれば、ヨルダンにスパイを送り込まなくても日本のメディアを見ていれば、いろいろな情報が入ってきて都合がよかったのではないか、と皮肉に考えてしまう。

 なによりも悲しいのは、メディアが真っ先に、日本に住むムスリムがこの事件をどう思うか、聞いて回っていることだ。犯人がイスラーム教徒全体を代表しているわけではないとは、明々白々。だが、メディアのコメントの端々には、「この事件を契機に、イスラームとどう付き合っていくかを考えなければ」といった発言が聞かれる。

 だが、「イスラーム国」の被害に最も苦しんでいるのは、たまたまそこを訪れた外国人や攻撃を行っている周辺国の兵士よりもなにより、現地のイスラーム教徒自身なのだ。「イスラーム国」が制圧している地域の住民こそが、集団で人質にあっているようなものなのだ。

 そのような立場にあるイスラーム教徒に対する共感が、メディアからは感じられない。9.11事件のときに、テロの被害にあった米国民に対して多くのイスラーム圏の人々が、「これでアメリカも日々テロや暴力の危険にさらされている私たちの悲しみをわかってくれるかもしれない」と感じた。だが、その結果行われたことは、イスラーム教全体がテロの源泉であるかのように行われた「テロとの戦い」だった。

 人質事件の一週間前に起きたパリのシャルリー・エブド誌襲撃事件では、テロの犠牲者であることは中東のイスラーム教徒も同じ、として中東諸国からも多くの連帯が呼びかけられた。だが、事件後ヨーロッパでは、極右の移民排斥の主張が高まり、イスラーム教徒に対する嫌がらせが頻発した。イギリスのラジオ番組では、テロ犯がやったことをイスラーム教徒に謝らせろ、といったコメントが寄せられた。(このときのキャスターの対応が秀逸だったと、英メディアで注目された。キャスター曰く「じゃあ、犯人がリチャードっていう名前だったら、リチャードっていう名前の君も謝らなきゃならないのか?」)

 「イスラーム国」登場以降、MuslimApologiesというハッシュタグが立ち上がっている。そのこと自体が、一介のテロリストが行った行為がイスラーム教徒全体の責任だと見なされることへの、イスラーム社会の憤懣を示している。後藤さんが命を懸けて伝えたかったことが、「イスラーム国を含めたさまざまな暴力の被害者である現地のイスラーム教徒の苦しみ」だったとすれば、その遺志を正確に伝えることこそがメディアの使命なのではないかと思う。ご冥福をお祈りします。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必死すぎる」「迷走中」
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    深夜の防犯カメラ写真に「幽霊の姿が!」と話題に...…
  • 6
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 7
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 8
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 9
    トランプが「マスクに主役を奪われて怒っている」...…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 9
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
  • 10
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story