コラム
酒井啓子中東徒然日記
選挙政治の是否が問われるエジプト
6月30日、エジプト各地で発生した大規模デモは、二日を経ても続いている。
カイロのタハリール広場を群集が埋め尽くす姿は、二年半前の2011年、当時のムバーラク大統領を辞任に追い込んだ「1月25日革命」を彷彿とさせる映像だ。参加者自体も、その時デモを主導した若者層が中心である。現ムルスィー政権の成立から一年となったこの日、ムルスィーの政権運営に「ノー」を言うために、再度集まった。
確かに、去年から比べても、カイロの街は荒んだ感じがする。6月初めに訪ねたときも、引ったくりなどが増えたと、さまざまな人たちから聞いた。過去の警察国家が崩壊したせいで、自由を謳歌しすぎる小売商たちは道路の半分くらいまで勝手に露店を広げ、おかげで渋滞は悪化する一方。タハリール広場に面した壁には、相変わらず「落書き」で憤懣を晴らそうと若者が毎日集まってくるが、革命から時間が経つにつれて、閉塞感は目に見えて深まっている。
メディアはつい「イスラーム政権vs世俗リベラルの対立」と評しがちだが、本質はむしろ、革命でよくならない社会経済的状況への不満、それに対して打つ手のないムルスィー政権への反発にあるといえよう。一周年デモの一週間前、『エジプシャン・ガゼット』紙が指摘した以下の言葉が、それをよく表している。「一年経って、人々はムスリム同胞団(ムルスィー大統領の出身母体)が、パンと尊厳と自由と社会的公正を求める革命精神の実現に努力するのではなく、ただ自分たちの政治計画の強化ばかりに腐心していることに気がついたのだ!」ムルスィー政権は官僚組織やその他公機関で次々に同胞団支持者を登用、人事の入れ替えばかりしている、といった文句も聞こえる。
そこで今回のデモを組織化したのが、「反乱せよ(rebel、アラビア語ではtamarrod)」という団体である。http://tamarod.com/index.php?page=english
二年半前の「革命」の先駆となった「4月6日運動」やそれに先立つ「キファーヤ運動」、さらにノーベル平和賞受賞者で一年前の大統領選でも候補に名があがったバラダイ元IAEA事務局長なども加わって、わずか二ヶ月前に成立した反ムルスィー大同団結団体だ。デモ実施前日までに、2200万ものムルスィー辞任要求署名を集めたといわれている。「出て行け」というスローガンも、ムバーラク大統領を辞任に追いやったときと同じセリフで、二年半前と糾弾相手を入れ替えて同じ大衆動員を図っている。
だが、二年半前と決定的に違うのが、相手が(一応)合法的に選挙で選ばれた大統領だという点である。ムバーラクのときは、合法的手段がないところで、大衆の声が独裁を倒した。だが、選挙結果を背景として支配権力を強める政権に、路上での大衆争議が何をできるだろうか。辞任要求が通れば通ったで、あれだけ苦労して導入した選挙は意味がなかったのか、ということになる。
そもそも、デモの圧力に屈して辞任するような政権ではない。議会選挙でも大統領選でも過半数を得て成立した政権である。「民意」を背負った自信に、溢れている(つまり、身近によくある「賛成していないのに選挙で圧勝する与党」だ)。これは、同時期に反政府デモが噴出したトルコでも同様である。
本稿執筆時点では、まだ大きな衝突はない。双方ともに、力づくで相手を倒そうとするのは望ましくない、との認識があるのだろう。ただ双方ともに、軍がどう出るかを息を潜めて見ているのが気になる。結局は事態収拾を軍に依存する、という解決は、過去の政変でしばしば見られた方法で、それでは元の木阿弥だ。
「反乱」しがちな若者層は、次の選挙でどう票を取るかではなく、直接的で性急な勝利を求めがちだ。加えて、「反乱」に協力する旧左翼系の知識人たちは、選挙で負けると選挙自体を不当としてすぐボイコットする。それじゃあだめだ、と、6月にカイロを訪れたときに会ったリベラル派の某政治家が嘆いていた。政権との対話を閉ざさず、野党の主張を要求し続けるべきだ、と言う彼は、野党陣営の間で「裏切り者」扱いされることも少なくない、とぼやく。
エジプトが直面する議会制民主主義を巡るジレンマは、同じく選挙を前にするわれわれにも、無関係ではない。
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