コラム

橋下市長の「教育バウチャー」は教育を変えるか

2012年06月22日(金)13時58分

 大阪市の橋下徹市長が当選してから半年。全国的には君が代斉唱や原発再稼働の騒動ぐらいしか知られていないが、この半年で橋下市長のやった仕事量は普通の市長の4年分を超える。大部分は大阪ローカルの細々した問題なので東京のメディアは報道しないが、そのローカルな政策の中に彼の本質がある。私もきのう読売テレビの討論番組に出演して彼の話を聞いて、その仕事の中身が初めてわかった。

 特におもしろいのは、塾代補助クーポンだ。これは学習塾などの料金の一部を市が補助するもので、9月から低所得者の多い西成区で先行実施され、来年度からは市全域で中学生の7割程度に月1万円分のクーポンを支給する予定だ。予算は34億円のささやかな事業だが、政治的には大きな意味がある。これは日本初の教育バウチャーなのだ。

 バウチャーというのは用途を限定した金券だが、普通の補助金と違うのは、塾ではなく親に支給する点である。公立学校は公費で運営されているが、私立学校は補助を受けるだけなので、授業料に格差が残り、貧しい家庭の子は私立学校に行けない。これに対して50年前にミルトン・フリードマンが提案したのは、公立学校に公費を支給しないで親に授業料をバウチャーとして補助する制度だ。

 これは実質的に公立学校を「民営化」するものだから、当然のことながら公立学校の教職員から強い反対があり、いまだに実施した国はない。アメリカでは一部の州で実施されているが、連邦政府では実施できない。ブッシュ政権が2002年に提案したが、民主党と労働組合が大反対運動を繰り広げて葬られた。

 日本でも安倍政権のとき教育再生会議で議題になったことがあるが、ほとんど議論にもならなかった。民主党の勉強会で、私が「子ども手当なんてバラマキはやめて教育バウチャーにすべきだ」と提案したところ、幹部は「バウチャーという言葉が出ただけで日教組が絶対に認めない」と答えた。

 今回の大阪市のバウチャーは塾に対するものなので労組も反対しなかったのだろうが、国政レベルではこれでも実現不可能だろう。保育所についてもOECD(経済協力開発機構)が「保育バウチャーのような合理的なシステムに変えるべきだ」と勧告しているが、厚生労働省は無視している。

 それがごく一部とはいえ実現したのは、日本の教育を考え直すきっかけになる。教育バウチャーが重要なのは、公的補助を消費者に出す点だ。これは橋下氏の提案している負の所得税と同じく、企業などの中間集団を通さないで政府が個人に所得を直接再分配する制度であり、日本の教育・社会保障の大転換である。

 日本社会の安定性を支えてきたのはこうした中間集団の厚みで、政府は企業の福利厚生を補助することによって「高福祉・低負担」を実現したといわれてきた。しかし企業経営が悪化し、財政危機が深刻化し、高齢化が急速に進む中では、こうした「日本型福祉社会」をもう維持することはできない。教育や福祉を聖域とせず、効率化する必要がある。

 教育に競争原理を導入する橋下氏の方針にも抵抗が強いが、学生が英語さえまともに話せない状況で「教育の中立性」を盾にとって現状維持を主張しても親は納得しない。もちろん問題はあるだろう。大阪市が「実験」して、成功すれば他の自治体や国も見習えばいいし、失敗したら軌道修正すればいい。原発の再稼働問題で姿勢を転換した橋下氏の柔軟さがあれば、それは可能だと思う。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ベネズエラ野党候補、スペインに出国 扇動容疑で逮捕

ワールド

フランス全土でデモ、マクロン氏の首相選出に抗議

ビジネス

景気懸念再燃、ボラティリティー上昇も=今週の米株式

ビジネス

米石油・ガス掘削リグ稼働数、4週連続減少=ベーカー
MAGAZINE
特集:日本政治が変わる日
特集:日本政治が変わる日
2024年9月10日号(9/ 3発売)

派閥が「溶解」し、候補者乱立の自民党総裁選。日本政治は大きな転換点を迎えている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「まるで別人」「ボンドの面影ゼロ」ダニエル・クレイグの新髪型が賛否両論...イメチェンの理由は?
  • 2
    「令和の米騒動」その真相...「不作のほうが売上高が増加する」農水省とJAの利益優先で国民は置き去りに
  • 3
    【現地観戦】「中国代表は警察に通報すべき」「10元で7ゴール見られてお得」日本に大敗した中国ファンの本音は...
  • 4
    強烈な炎を吐くウクライナ「新型ドローン兵器」、ロ…
  • 5
    メーガン妃の投資先が「貧困ポルノ」と批判される...…
  • 6
    森ごと焼き尽くす...ウクライナの「火炎放射ドローン…
  • 7
    森に潜んだロシア部隊を発見、HIMARS精密攻撃で大爆…
  • 8
    国立西洋美術館『モネ 睡蓮のとき』 鑑賞チケット5組…
  • 9
    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…
  • 10
    川底から発見された「エイリアンの頭」の謎...ネット…
  • 1
    エリート会社員が1600万で買ったマレーシアのマンションは、10年後どうなった?「海外不動産」投資のリアル事情
  • 2
    森ごと焼き尽くす...ウクライナの「火炎放射ドローン」がロシア陣地を襲う衝撃シーン
  • 3
    中国の製造業に「衰退の兆し」日本が辿った道との3つの共通点
  • 4
    国立西洋美術館『モネ 睡蓮のとき』 鑑賞チケット5組…
  • 5
    「まるで別人」「ボンドの面影ゼロ」ダニエル・クレ…
  • 6
    死亡リスクが低下する食事「ペスカタリアン」とは?.…
  • 7
    大谷翔平と愛犬デコピンのバッテリーに球場は大歓声…
  • 8
    再結成オアシスのリアムが反論!「その態度最悪」「…
  • 9
    エルサレムで発見された2700年前の「守護精霊印章」.…
  • 10
    「あの頃の思い出が詰まっている...」懐かしのマクド…
  • 1
    ウクライナの越境攻撃で大混乱か...クルスク州でロシア軍が誤って「味方に爆撃」した決定的瞬間
  • 2
    寿命が延びる「簡単な秘訣」を研究者が明かす【最新研究】
  • 3
    エリート会社員が1600万で買ったマレーシアのマンションは、10年後どうなった?「海外不動産」投資のリアル事情
  • 4
    電子レンジは「バクテリアの温床」...どう掃除すれば…
  • 5
    ハッチから侵入...ウクライナのFPVドローンがロシア…
  • 6
    年収分布で分かる「自分の年収は高いのか、低いのか」
  • 7
    日本とは全然違う...フランスで「制服」導入も学生は…
  • 8
    「棺桶みたい...」客室乗務員がフライト中に眠る「秘…
  • 9
    ウクライナ軍のクルスク侵攻はロシアの罠か
  • 10
    「あの頃の思い出が詰まっている...」懐かしのマクド…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story