コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
「朝日君」
「日本に行ってやりたいこと。それは日本人による中国語での情報発信がどれだけ重要かを分かってもらうこと」
3年前の今頃、日本の国際交流基金の招きで3ヶ月間日本に滞在することになっていた、中国人ジャーナリストの安替は、北京でわたしと会うたびにこう言っていた。そして幸か不幸か、春から準備が進められていた彼の訪日まであと数週間という時になって、尖閣沖で中国漁船が海上保安庁の監視艇に体当りする事件が起きて漁船船長が拘束され、またその船長の釈放を求めて中国各地でデモが起きた。
「幸か」と言うのは、この事件に絡んで「中国のネットでは反日発言が渦巻いている」と報道されたおかげで、ネットで活躍するこのジャーナリストのタイムリーな訪日と発言がメディアに注目されたこと。「不幸」とは、日中間の摩擦に不快感をあらわにし、最初からこの1人の中国人ジャーナリストに警戒心丸出しで接した日本人もいたこと。でも、あの時はまだかなりの日本人が「何かできることがあるのでは」という思いで安替の言葉に耳を傾けてくれた。
それでも安替がいくつかの講演会で「中国では日本人が日頃何を見て、何を考え、何をどう語っているのかがまったく伝わってこない。だから日本メディアは今後、日本語記事を中国語に翻訳して配信するなどしてその情報の穴を埋めるべき。西洋や韓国のメディアはすでにそれを始めている」と言った時、メディア関係者からは必ずといっていいほど、「翻訳するのにもコストはかかる。カネの回収はできるのか。日本のメディアが無料で中国人に記事を提供する必要はない」という否定的な声が返ってきた。
彼が続けて「まずはツイッターでもいい。日本で流れている話題を中国語に訳して流すことで中国人に日本人が日頃何を考えているのか、を知らせることはできますよ」と言っても、当時のメディア関係者の声の多くが「ネットにはデマ情報も多くて信用出来ないし、メディアとは一緒にはできない。さらにツイッターなんて...」だった。まだまだネットをメディアツールとは考えられない人がたくさんいた。
その時の安替の主張は、以前もご紹介したがNewsweek Japanの企画による、ジャーナリストの津田大介さんとの対談にまとまっているので興味ある方はご覧頂きたい。
先週、朝日新聞社の中国語サイトが中国の微博(中国国産マイクロブログ)サイトに開いていた「朝日新聞中文網」公式アカウントがすべて削除されたという情報に触れた時、3年前のことを思い出してその変化に隔世の感を覚えた。
朝日新聞で中国語サイトが設立された経緯は安替の訪日とは直接の関係はない。彼も日本滞在中、朝日新聞社に招かれて同社内の希望者を集めて「昼食懇親会」のような場で話をさせてもらう機会があり、社内の会議スペースには多くの記者さんたちが集まってくださった。その時、特に日頃は中国報道とは関係のない部署にいる若い記者さんたちが、彼が語るツイッターやネットの威力に目をキラキラさせながら聞き入り、散会した後も「ぜひお話を記事にしたいので、もうちょっと話を聞きたい」と声をかけてくださった、社会部の記者さんもいた。だが、そこに「今回はオフレコだから」と年配の記者さんが割って入り、その記者は残念そうに部署に戻っていった。その時にも同じ新聞社内でありながら「若手」と「年配」の意識の違いを大きく感じたものである。
そしてその際に社内を案内されて見せてもらったのだが、そのうちの一つが当時すでに準備中だった中国語チームだった。つまり、安替の言葉に「儲かるのか、そんなカネどこにある?」と言っている関係者がいる一方で、しっかりとその必要性に気がついて実際に準備を始めているメディアもいたのである。
同チームは当時、「新鮮日本」という「日本を紹介する」中国向け有料週刊誌を立ち上げる準備を進めていた。「中国では有料で情報を配信しても儲からない」という声に切り込んだわけだが、同誌を立ち上げたばかりの頃、同誌編集長の野島剛記者は「日常のニュースを中国語にして掲載するつもりは今のところない」と言っていた。同じ翻訳でも取り上げるのは中国人読者を意識した「日本の紹介」がメインだったのだ。
だが、安替が日本で伝えようとしたのは、「今日本や世界で起こっていることに日本人がどんな反応を見せているか」「どんな意見があるのか」を中国語で中国人に伝えて「日本人とはどんな人たちかを知ってもらうことが大事」ということだった。中国人自身がニュースで見聞きする事件を日本人はどう考えているのかを知ってもらうことで、共有できるものもあるだろうし、考えさせられるものもある。そしてそれを知ることでお互いの共通点や違う点を具体的に知っていくことができる、という意味だった。
一方で中国人用に「美しい日本」を喧伝する記事は、中国に流れ込む情報を監視する当局の「関所」を簡単に超えることができる。だから放っておいても旅行社や日本のPR担当者たちがやってくれる。だが、世界や日本のニュース、そしてそれから巻き起こっている議論こそが「本当の」日本や日本人を知るきっかけになる、というのが安替の考え方だった。だから、日頃から日本人向けにニュースを扱うメディアに対して、「中国語版を」と訴えたのだ。
そして中国語雑誌でまずその足を踏み出した朝日新聞社社内は自然にその必要性を感じるようになった人がいたのだろう。「新鮮日本」の後、昨年4月に「朝日新聞中国語サイト」が立ち上がる。そして中国人の間で情報ツールとして注目されるようになった中国産マイクロブログ「微博」に公式アカウントが作られ、サイトへの導入をはかるリンクを貼った書き込みがなされるようになった。それは、中国で人々がどんなふうに情報収集をしているかを知っていればとても自然の成り行きで、朝日は敏感にそれを感じ取っていた。
もともと外国ニュースに興味を持つ中国人にとって、日本の新聞社として「朝日新聞社」の名前はよく知られている。そこに朝日が中文サイトを開き、日本語で配信しているニュースの一部を中国語に翻訳して掲載していることがじわじわと知られるようになり、早くから中国語サイトを開いていた「フィナンシャル・タイムズ」や「ウォールストリート・ジャーナル」などと同じように話題の外国ニュースサイトになっていった。
特筆すべきはその認知度を爆発的に高めるようになったのは、1日の終わりに書き込まれる「晩安・哦呀蘇咪」だったのは間違いないだろう。「晩安」は中国語で「おやすみ」の意、そして「哦呀蘇咪」は「オヤスミ」と読む。この定期的な書き込みのおかげで、中国人の間に初めて日本語の「おやすみ」という言葉が浸透した。
「晩安・哦呀蘇咪」の書き込みは、その日一日のニュースキーワードから一つを選び手書きしたものだ。そこに中国語のアルファベットのよみがな(ピンインと呼ばれる)をつけているが、その手書き文字の美しさ、そして漢字の構成部分を一部色分けしたり、ろうそくや斧や星などさまざまな絵に替えて、ビジュアルで読ませる見事な「手書きキーワード」だった。
中国では2011年ころから微博が情報ツールとして急激にユーザーを増やし、巷で起こった事件があっという間に口コミ式に流れていくようになった。もちろん、当局にとって都合の悪い情報は後から削除されるわけだが、その手法はキーワード検索で書き込みを見つけ、そして削除するというもの。それに対抗して微博ユーザーが一旦書いたものやプリントアウトしたものを写真に撮り、画像ファイルとして添付するという手法が出現した。画像ならキーワード検索にはひっかからず、削除担当者は目で確認して削除するという手作業を強いられ、メッセージはその分長く生き延びることができ、できるだけ多くの人の目に触れることができるという寸法だ。
「晩安・哦呀蘇咪」も文字を写真に撮って「見せる」ものだったため、かなり突っ込んだ「事件」をピックアップして表現した。そのヒネリとキーワード選びの絶妙さがあっという間に人々に注目され、また手書きであるために人間味があり、そこから「朝日君」という愛称で呼ばれるようになった。昨年は初対面の人には必ずと言っていいほど、「朝日君知ってる? あれ、日本人なの、それとも中国人なの?」と興味津々で尋ねられた。中国人読者からすると、ピンインが書き込かれているガイジンっぽい視点、そしてアニメチックな手書き文字というアイディアが斬新で日本人ぽく感じる、しかしキーワードの選び方や表現方法が中国人のツボを得ている、のだそうだ。(余談だが、わたしの経験を振り返ると初対面の中国人との話題キーワード第一位は、2012年が「朝日君」、2011年が「蒼井そら」、2010年は「加藤嘉一」だった。)
今年3月、この「晩安・哦呀蘇咪」を担当していた筆者は朝日を離れ、今は個人のアカウントで作品を発表している。幸か不幸かそのおかげで、彼の絶妙な「晩安・哦呀蘇咪」は今回の朝日アカウントの削除後も生き残ることができている(だが、初期の作品の多くはすでに削除されている)。
なぜ、わたしがこんな事を長々と書いてきたかというと、たぶん今回の「朝日新聞中文網」微博アカウント削除のニュースは一部の人に、「そら見たことか」と受け取られているのではないか、と思ったからだ。このニュースに接して、中国という国内にはもともと情報の規制があるのはいわずもがなで、当初安替が言ったような「情報発信」などそう簡単じゃないんだよ、と思い起こした人もいたはずだ。
確かに上述したように、微博では当局が都合が悪いと判断した情報は削除される。そして今回のようにアカウントが完全に削除されるという自体も起こりうる。そして朝日新聞記事の中国語翻訳を掲載したサイトも中国からは普通の方法ではアクセスできないようにブロックされている。これらはすべて2010年に安替が講演した時、必ずと言っていいほど受講者から出て来た「中国における情報伝達のネガティブな現状」そのものだ。当局が敷く情報規制の対応はそれほど変わっていないといえる。
だが、その間に朝日新聞中文網の微博アカウントが「朝日君」と呼ばれて親しまれるまでに成長した結果、その突然の消失に「朝日君がいなくなって寂しい」「いつ帰ってくるんだろう?」「早く帰って来い!」という声が微博には流れている。さらには、「今回の朝日新聞中文版の微博アカウント削除は、日本の右翼に(親中的な)朝日新聞を攻撃する口実を与えた」と皮肉を言う人もいる。これらの人々は、間違いなく朝日の中文サイトを通じて、日本を理解し、または理解しようとしてきたのである。
彼らは朝日中文網のサイトにもアクセスして情報を読み続けてきた。同サイト自体は日本にサーバーを置いているために中国当局が手を伸ばして削除することはできず、ユーザーたちは当局のブロックを乗り越えれば簡単にその内容を読むことができる状態が続いている。実際、情報に敏感なネットユーザーたちの多くは「壁越え」と呼ばれるその手段を利用している。
現在では朝日中文網のほかにも、「Nippon.com」や「日経中文網」などの日本発オピニオンサイトが中国人ネットユーザーの間でよく引用されている。間違いなく、そうしてそこで展開される日本の言論は中国の人たちに読まれ、理解されている。2010年に安替が訴えた状況が少しずつ実現しているのである。
今回の朝日微博アカウント削除は一つの「経験」として捉えるべきだろう。この「経験」の原因を求め、いかに今後回避するのか、そこからどんなふうに中国向けに情報発信をしていくかをメディアが分析し、対策を取るための試金石としてみるべきなのである。(わたしが考える「削除に至った原因」についてはこちらで分析した。ご一読ください)
そう、中国はそういう国なのだ。だからこそ情報発信が必要だし、こんなことでためらってはいけないのである。
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