コラム
ふるまい よしこ中国 風見鶏便り
中国政府の不作為、日本政府の無能:領土問題第2ラウンド
「亭主、元気で留守がいい」というブラックなCMコピーが話題になったことがあった。今の中国政府は「国民、元気で無知がいい」だろう。
自国に駐在する外国の使節や高官の保護、安全、尊厳を守ることを各国に求めた「ウィーン条約」は「国際社会の常識」である。GDP世界2位の中国の首都で白昼堂々と、公道上でその「国際的な常識」をいともたやすく破壊する行為が起こったことは、犯人が誰であれ、どんな背景を持つ人物であれ、中国政府の責任が問われる。
しかし、わたしは個人的に、丹羽宇一郎日本駐中国大使の乗った大使公用車から日の丸をむしりとって逃げた犯人は、たぶんこの「ウィーン条約」の存在を知らなかったのではないか、と思っている。日本人の常識からすれば理解できないだろうが、実際に中国ではドイツ製高級車を乗り回しているような、「ステータス」と「カネ」を持った人物ですら、そんな「国際的な常識」の存在すらまったく頭にない人がいる。つまり中国では、社会的、国際的な常識教育すら行われないまま育った、野放図な人間があちらこちらにいる。
中国には自国の旗の取り扱いには「神聖なる」と揶揄されるほどの厳しい規定がある。しかし、一方では、当局は自国民が他国の旗をいともたやすく焼いたり踏みにじったりするのを、文字通り横目で眺めて放置してきた。今回の事件はその延長にあるともいえる。本当にメンツを重んじる国であれば、これほど恥ずかしいことはないはずだ。
このような中国政府の「不作為」を、中国国内の知者たちは「愚民政策」と批判する。インターネットやコンピュータなどの技術知識の普及には力を入れても、国際的な常識や知識を得るための教育は行われず、上の学校に進学すればするほど「自分で考える」「自分で創り出す」力がそぎ落とされ、「上からの命令に従う」「体制に従順」な者が育つ――これは外国文化に触れてクリエイティブな仕事についた中国人や、国際的な常識に触れて痛い思いをしたこともある経験を経て自分自身を鍛え上げた知者たち誰もが口にする中国の教育の現状だ。
わたしはこれまでの「中国」との付き合いで、この国でおそるべき知性と常識を共有する人たちに出会うたび、彼らのすごさに舌を巻き、彼らに心からの尊敬の念を抱いてきた。というのも、この国の上述したような社会の中で国際常識、あるいは我々と通じ合える、西洋的な価値観を育むのは並大抵のことではない。彼らは、日本社会で育った我々が想像もできないほどの多くの「壁」や「障害」を乗り越えて初めてそれらを身に着けることができたのだ。
たとえば、インターネットがまだなかった時代に、英語もそれほど得意ではないある音楽評論家は、高額な国際FAX料金をやりくりしながらアメリカの音楽情報を追い続け、西洋音楽にあこがれるファンたちに紹介し続けた。外国のニュースを手に入れて、外国事情の理解のために中国国内に翻訳して流し続ける翻訳家。そして仕事の合間に、「尖閣諸島は沖縄の一部」と明言した、1953年の「人民日報」社説を敢えて紐解き、骨董市場を自分の足で練り歩いて古地図を探し出して、実際に過去の中国地図上では尖閣諸島が全く無視されていたことを発見したジャーナリスト。
......熱意があれば日本人だってそれくらいやる、なんだそれしき、とあなたは思うかもしれない。しかし、国や政府、党機関が意図しないことに手を染めた場合、簡単に「国家反逆罪」あるいは「国家機密漏えい罪」などに問われる中国の現実を思えば、彼らの意思の強さと信念の固さに脱帽せざるを得ない。その努力と時間的な労力、そして金銭的支出の多くは、その信念の結果得られた個人収入とは全くバランスが取れない状況下でも、世界的に通用する知識や常識を追い求めた彼らの熱意は中国人も含めて多くの人たちに評価されるべきだ。
前掲の音楽評論家はアメリカの音源を購入しようと国際ファックスを送った3分後に、「久しぶり」と大学時代の同級生から電話をもらった。なんと政府に入職したその同級生は、当時国内からの外国向け通信を監視する役目についており、そこに偶然流れてきたかつての知り合いの署名があるファックスを目にして、「懐かしい」と電話してきたという。この出来事を通じて、国がどんなふうに自分たちの活動を監視しているのかを知り、ぞっとした、と彼は語った。わずか10年ほど前の話である。
もちろん、関心や興味はあっても結局、「政府が許さない」ことに気が付き、多くの人たちは自分の手にしたものを途中で放り投げていく。国が熱心に与えようとしない「国際的な常識」や「社会通念」は、この国では個人個人が努力によって身につけるしか方法がない。だが、そこではコネや賄賂を使って金を儲ける方が、常識人としての自分を鍛え上げるよりも何倍もラクなのだ。
この国の社会常識教育における不作為の結果は、今でも道路を走る車を眺めているだけでよく分かる。路上ルールなどほとんどない。割り込めるときは割り込み、通行人が歩いていてもクラクションを鳴らして蹴散らして走る。赤信号は目視して自分で判断し、横から交差点に入ってきた車のスキをすり抜けて飛ばして行く......。
中国社会ではこうして生き残ることができるのは「パワー」ある者のみ。力がある者がその場を制するという「社会条理」の下で、中国の人々は最終的に力にものを言わせて自分の生存空間を勝ち取り、自分の主張を通すことを学ぶ。多くの人たちが平和的に共存するための社会通念や常識など、そこではまったく重視されない。こんな暴力的な社会を作り上げたのが、政府の「国民、元気で無知がいい」ともいえる不作為であり、知者たちが揶揄する「愚民教育」だ。その成果は白昼堂々と公道で、日本大使公用車を襲撃する形で世界に向けて演じられた。
しかし、その一方で日本政府の対応も疑問だ。
これを書いている30日早朝のメディア報道によると、最初に伝えられた「2台の黒い高級ドイツ車両」が「1台は白、1台は灰色(シルバー)」に変わり、そのうち白いBMWが「ニセモノのナンバープレートを付けていた」という。この襲撃事件が明らかになったのは大使館経由の情報による日本メディア報道が発端だったはずが、なぜここにきて公用車に同乗していた大使館関係者が写真まで撮ったという車両の基礎情報が、「黒」から「白と灰色」へと劇的に変化するのか、厳重な捜査を求める日本政府の側に立ち、後続情報を待つ国民としては狐につままれた気分だ。
こんな基本的な情報すら最初から大間違いで伝わっていたとすると、大使館を含めて日本政府側はメディアに対してきちんとしたブリーフィングを行ってきたのか、と疑問に思わざるを得ない。さらにもっと不思議なのが、現在に至るも当事者である丹羽大使からのコメントは発表されず、事件後に参加したシンポジウムでの発言が伝えられているのみだということ。
同大使は6月に受けた英紙「フィナンシャルタイムズ」のインタビューでの失言がきっかけで10月に交代が決まったとされるが、まだ日本大使の身である。だがその彼からもコメントが出てこないということは、すでに大使館、あるいは外務省を含めた日本政府内では「死に体」扱いなのか。
もし日本政府あるいは外務省が、その「死に体」大使への襲撃、それも直接的には負傷などの事態に及ばなかった事件を大騒ぎして、逆に各地で反日デモが起こっている中国をこれ以上刺激してはならないと考えたのであれば、本末転倒だ。声を上げるべきときは上げる。それもきちんと国際的な常識である「ウィーン条約」順守を求めて公の声にする、そういう姿勢を根本的に日本政府は忘れているのだろうか。もしそうであれば、そんな外交姿勢が丹羽大使による外国紙上での失言を引き起こしたともいえるかもしれない。
中国における日本大使館の広報活動は「ミステリアス」だと思われている。たとえば、今週行われている日朝協議に関しても、わたしのもとに中国メディア関係者から悲鳴にも似た電話がかかってきた。「なんの情報もない。日本大使館は協議後に記者会見を行ったが、外国メディアは全部締め出され、我われにはなんの説明もない。なにか日本語でネット上で流れていないか」と助けを求めてきたのだ。
日本と北朝鮮の関係はとてもセンシティブで微妙な問題を抱えている。「日朝協議」と名付けられているのだから、日本と北朝鮮との会議であることは間違いない。だが、世界のメディアがその会議の状況に注目しているなか、まるで鉄のカベに阻まれたどこかの国のように、他国メディアをすべて排除して行われるブリーフィングにどれだけの「国益」があるのだろうか。
日本は拉致事件やミサイル問題を自国だけで解決できるとは考えていないはずだ。チャンスがあれば国際舞台に持ち出し、自国の主張を通すためにも、日頃から日朝で何が語られ、どんなふうに物事が進んでいるのかを敢えて自身の立場から世界に告知する必要がある。そうすることで世界の共感と協力を得るための準備を進めるべきなのに、その努力がまったく行われていない。六か国協議の席上でも「日本だけが拉致問題に固執した」と陰口を叩かれたのも、他国の共感を得るための努力が足りなかったという現実の裏返しだとは感じていないのか。
世界の協力を得るためには、世界の共感を勝ち取る必要がある。
例えば今年5月、アメリカは中国国民である陳光誠氏を中国国内からそのまま自国に出国させるという一見、荒唐無稽なドラマを成功させた。この驚くべき脱出劇は、農村に何十もの監視のカベに阻まれて何年間も監禁され続けた、この中国籍の盲目の人権活動家を「アメリカ政府が救出することがいかに理にかない、人道的なことなのか」を、世界にイメージづけ、納得させたアメリカの勝ちだった。事件の真っ最中に予定されていた米中戦略経済対話に出席するために満を持して訪中したクリントン国務長官は、結局陳氏の処遇に振り回され、同対話の席上ではこれといった成果もあげることができなかった。だがその過程においても、自国メディアを使って熱心に自国の取らんとする立場を対外的に喧伝し、また自身の発言の場を利用して語り続けた。その結果、「アメリカ政府による中国国民救出劇」は世界的にほとんど異論のない形で幕を引いた。
問題となった丹羽大使の「FT」インタビューは、それまで米国とは全く逆の「ミステリアスな日本大使館」を続けてきた広報の伝統を破るものだった。直接西洋メディアに働きかけて、日本の対中政策を海外に発信する、その考え方は非常に画期的だったとわたしは思う(同様にわたしはよく日本メディア関係者に、日本人にとって注目の、米国対中政策の先端にいる駐中国米国大使にインタビューすべきだ、とはっぱをかけ続けているが実現していない)。だが、残念なことに同大使はそこで先走りし過ぎ、結局更迭されることになった。たぶん、今後再び日本の駐中国大使が第三国メディアのインタビューを受け入れるまでにはしばらく時間がかかると思う。
大使公用車襲撃事件に話を戻そう。
だが、自国内で自国メディアにだけ対して「ウィーン条約違反」を繰り返し、また「尖閣諸島の領有権」を語り続けても、その「正当性」に対する共感はそれほど直接的に西洋社会には広がらないだろう。「ウィーン条約違反」という世界の沽券に係わる事件の詳細ですら、日本大使館周辺は正確に流そうとせず、御簾の内で処理しようとしているのである。このような日常のブリーフィングを怠り、都合の良い時だけ西洋社会にすり寄っても、心からの同情と共感、理解は得られない。特に現在のように経済力とともに国力すら低下している日本では。
北京の街で頭上を見上げればあちらこちらに監視カメラが設置されている(特に以前に比べてここ数年急激に増えた感がある)。わたしが暮らす何の変哲もない民間ボロアパートの入り口真ん前にも、住民には知らされていないがしっかりぴかぴかの最新設備のカメラが設置されている。このような総管理体制下において天下の公道で起こった事件が記録されていないわけがない。たとえ犯行車のナンバープレートが偽物だったとしても、ここは大海の中からネットユーザ1人をすくい上げて強制労働に送ることができる能力を備えた国なのだ。
もし、ここで反日デモ沈静化と引き換えに、今回の事件を「ニセモノのナンバープレート」を口実に切り抜けることを許してしまえば、日本政府の無能ぶり、そして原則なさぶりはますます世界に広まるだろう。この「日本政府」とは民主党政権だけではない、実際に外交を司る外務省を含めた「政府」だ。
日本は世界の常識である「ウィーン条約」について、中国政府が国民に説かないのであれば代わりにそれをはっきりと口にして繰り返し、その公正なる処分を求め、必要ならば手持ちの写真とビデオを公開して、常識ある中国国民の協力をも仰ぐべきだ。もしここで不作為による「愚民政策」に乗っかり、「力による管理」を横行させてきた中国政府の口実に対して毅然と背筋を伸ばして善処を求める態度を見せなければ、今回の事件だけではなく今後の中国政府との外交折衝において国際的な共感や同調を集めることはもっと無理だろう。
それは、もし今回の事件を領土紛争の延長と見なすのであれば必然ともいえる。世界的な常識に照らした、事件への対処を当事国へ求める。それすらやらずに国際法廷に訴えを通すことができるのか。日本の態度が疑われるだろう。
だからこそ、中国政府の不作為と日本政府の無能、そのどちらの責任が重いのか。ここで我々は、主権者としてじっくり見守る必要がある。
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