南米街角クラブ
なぜ東洋人街リベルダージの広場が「アフリカ - ジャパン」に改称されたのか
世界で最も日系人が多いブラジルには数多くの日系人移住地が存在し、今でも伝統を受け継ぐ土地が残っている。
しかし、観光地として最も親しまれているのは、サンパウロ市中心部にある「リベルダージ地区」であろう。
パンデミックも落ち着いた今、週末のリベルダージ駅周辺は歩くのが難しいほど混雑している。
生まれも育ちもリベルダージだという日系人女性は「この数年でびっくりするほど新しいお店が増えたのよ。前はもっと落ち着いた雰囲気があった」と言う。
確かに、私も同じように感じていた。
今から13年前、私が初めてリベルダージを訪れた頃を思い出すと、道端で白髪交じりの日系人たちが日本語やコロニア語(日本語とポルトガル語を混ぜた言葉)で会話するのが聞こえてきた。
ショーウィンドウには祖母の家で見たことがある花柄の電気ポットや招き猫の置物が並んでいた。なんだか下町の商店街にいるようだった。
しかし、数年前から見て楽しめるエンターテイメントなカフェやモダンな日本食レストランが続々とオープンしている。
リベルダージ駅前のカフェと、有名レストランが並ぶトーマス・ゴンザーガ通りは週末になると長蛇の列ができる。
アニメや漫画関連の店も以前と比べて存在感を増し、コスプレイヤーの集団が歩いているのをよく見かけるようになった。
最近ではメイドカフェもオープンし、鳥居の手前にある橋ではミサンガを売るドレッド・ヘアの男女が本格的な露店を出し、ベンチでは同性愛者のカップルが仲良く肩を組んでいる。
また、驚くことに駅前の広場では毎週土曜に「リバ・オージ」(意訳「今日リベルダージ行っとく?」)という大規模な若者の集いが行われている。
-- belle belinha (@Belle_belinha__) April 20, 2023
リベルダージは、下町の商店街から原宿の竹下通りのようになった。
ちなみにブラジルでも人気がある韓国カルチャーは、リベルダージから5kmほど離れたボン・へチーロ地区の方が賑わっている。
|東洋人街リベルダージの発展
南米で最も大きな東洋人街の1つであるリベルダージが発展した歴史を探るには、日本人移民の歴史を知る必要がある。
1908年、笠戸丸が日本人移民と共にサンパウロ州のサントス港にやってきた。移民はコーヒー栽培などに従事するために同州の奥地へ送られたが、実はその2年前、リベルダージに隣接する地区で商売をはじめた日本人がいた。
その「藤崎商会」の店主が借りていたリベルダージの一軒家で炊事を担当していた夫婦が下宿所をはじめ、のちに日本人移民の宿泊所が増えていった。それ以前はポルトガル人やイタリア人移民が宿泊所を設けていた。
農場生活に慣れない人や、町での生活に希望を抱く日本人移民が地方の移住地からやってきて、半地下の安い部屋を数人で借り生活していた。
こうして日本人が増えていったが、第二次世界大戦が勃発しブラジルと日本が対立国となると、1942年、この地区の日本人居住者の立ち退き令が発令された。
リベルダージについて書かれた文献やインタビューを拝見すると、同地区が「日本人街」として発展したきっかけは、1953年のシネ・ニテロイ完成だと言う。
シネ・ニテロイは、1,500人収容の映画館と、レストラン、貸ホール、ホテルを常設した5階建てのビルで、もちろん上映されていたのは日本の映画だった。
雑穀取引商で成功した田中義数氏が創設したシネ・ニテロイは、多くの日本人移民の憩いの場となった。その賑わいにより、シネ・ニテロイ周辺にはホテルや飲み屋が立ち並び、寿司に天ぷら、味噌汁を味わいながら、邦字新聞を読むことができる日本の街角のようになった。
1968年、高速道路建設のためにシネ・ニテロイは移転をすることになり、その高速道路を跨ぐようにかけられた橋は「大阪橋」と名付けられた。
1973年、現在リベルダージの象徴となっている日本庭園、鳥居、鈴蘭灯の建設がはじまった。最後の日本人移民船がサントス港に着いた年であった。
1975年に地下鉄リベルダージ駅が開通する際に、鳥居と同じく柱を朱色に染めた鈴蘭灯が点灯された。3つの大きな鈴蘭は白く強い光を放つ。
日本人の他、中国人や台湾人、韓国人もこの界隈に進出し、リベルダージは「東洋人街」として東洋文化や移民史を保存する貴重な場所となった。70年代半ばに流行したカラオケは今でも盛んである。
今日、日本人移民やその子孫は故郷を懐かしむ気持ちで、非日系ブラジル人はまるで地球の反対側へ行くような気持ちで、世界を旅するバックパッカーは久しぶりの日本の味を求めてリベルダージにやってくる。
|波紋を呼んだ「リベルダージ・ジャパン広場」
こうして、サンパウロを代表する観光地となった東洋人街リベルダージだが、2018年、駅前にある広場の名前がリベルダージ広場から「リベルダージ・ジャパン広場」となった。同時に地下鉄の駅名もジャパン・リベルダージに変更された。
まさかと思っていたが、長期滞在していたペルーからサンパウロへ戻った私が地下鉄に乗ると、車内の路線図にしっかり「Japão - Liberdade」と記されていた。
いったい何が起こったのか、リベルダージに長く住む友人に聞いてみた。
「日本人の移民110周年の際、眞子さまが来伯されるのに合わせてリベルダージ地区の改修と、広場と駅名に『ジャパン』を付け加えるように市に呼びかけた」
「評判はあまりよくないね」と続けて言うので、
「東洋人街なのに『ジャパン』に限定しているからですか?今は日本人やその子孫より中国人や台湾人の方が多いように感じますが...」
と言い返すと驚きの返事が返ってきた。
「それもあるけど、強く反対しているのはアフリカ系ブラジル人たちだよ」
それまでリベルダージでアフリカ文化に触れる事はなかったし、日本の旅行ガイドにも東洋人街と書かれている。
ブラジル人の友人ですら、リベルダージといえば「鳥居と鈴蘭灯とジャポネース」だと言うのに。
著者プロフィール
- 島田愛加
音楽家。ボサノヴァに心奪われ2014年よりサンパウロ州在住。同州立タトゥイ音楽院ブラジル音楽/Jazz科卒業。在学中に出会った南米各国からの留学生の影響で、今ではすっかり南米の虜に。ブラジルを中心に街角で起こっている出来事をありのままにお伝えします。2020年1月から11月までプロジェクトのためペルー共和国の首都リマに滞在。
Webサイト:https://lit.link/aikashimada
Twitter: @aika_shimada