南米街角クラブ
なぜ東洋人街リベルダージの広場が「アフリカ - ジャパン」に改称されたのか
|東洋人街と呼ばれる前のリベルダージ
リベルダージを訪れる人は、たこ焼きや天ぷらを食べて、漫画や日本食材を物色して、鳥居や鈴蘭灯にばかり目が行く。私もそのうちの1人だったのだが、それ以来アフリカ系ブラジル人が「ジャパン」に反対したことが気になっていた。
2022年にはリベルダージ・ジャパン広場に黒人運動の活動家で初めてサンパウロにサンバチームを創設したゴッドマザー・エウニーセ(1909 - 1995)の銅像が現れた。エウニーセはサンパウロの田舎で生まれ、幼少期からリベルダージで暮らしていた。
良いタイミングで、友人にすすめられて参加したサンパウロ市主催のリベルダージ街歩きツアーに参加した際、ガイドさんが駅前を降りて広場と反対側の角にある教会に連れて行ってくれた。
角にぴったりはまるように建つこの教会の存在は知っていたが、入るのは初めてだった。
この教会が、リベルダージと「アフリカ」の繋がりを教えてくれた。
|「リベルダージ(自由)」という名の由来
今日賑わうリベルダージの広場は、かつて絞首刑が執行される死刑場だったということを人々は忘れつつある。中には私のように全く知らない人もいるのだ。
植民地ブラジルがポルトガルから独立する1822年の前年、サントス第一部隊の兵士であった黒人フランシスコ・ジョゼ・ダス・シャガス、通称シャギーニャスらが、自分たちとポルトガル人兵士の賃金格差や5年に渡る滞納を理由に反乱を起こした。
要求が受け入れられるどころか、シャギーニャスらは現在のリベルダージ広場で絞首されることになった。
同年9月2日、刑の執行がされ、他の仲間に続きシャギーニャスの番がやってきた。
執行の際、シャギーニャスに巻かれた縄が切れ、地面に倒れた彼は一命を取り留めた。集まった群衆は「リベルダージ(自由)!リベルダージ!」と叫んだ。
このような場合、減刑や恩赦を受ける時代であったが、シャギーニャスは再び縄をかけられた。
しかし、同じように縄が切れる奇跡が起こったのだ。
「リベルダージ!」と叫びが聞こえる中、恩赦を受けることなく彼は三度目の縄をかけられ、最後には撲殺された。
これがリベルダージ地区の由来となった。
シャギーニャスを讃える十字架が建てられた場所に、1887年、「絞首者の魂の聖十字架教会(Igreja Santa Cruz das Almas dos Enforcados)」が建てられた。それが私が入った教会である。
|共同墓地と礼拝堂
シャギーニャスや多くの人々が処刑された跡地である広場から、現在のエストゥダンチ通りを降りていく間、右側に小さな袋小路がある。
この奥に「苦しみの礼拝堂(Capela dos Aflitos)」が見える。
かつて、人が亡くなると葬式は教会で行われていたが、それはポルトガル人やお金持ちの特権であった。
アフリカから奴隷としてやってきた人々や貧しい人々は、共同の公共墓地へ埋葬された。
サンパウロ市初の公共墓地となっていたこの地には、亡くなった人々へ祈りを捧げる礼拝堂があった。1858年に墓地はなくなり、礼拝堂のみが改修工事され残されている。
また、シャギーニャスは処刑される前日まで礼拝堂の扉の奥にある独房に拘束されていたことから、願い事を書いた紙を扉に貼り付け3回ノックすると願いが叶うと言われている。
|「リベルダージ」を求める人々
駅前の広場の名前に「ジャパン」が加えられてから、シャギーニャスの肖像画と共に「リベルダージは日本だけじゃない」と日本語で書かれたグラフィティがリベルダージ地区に現れた。
多くの観光客で賑わう駅前周辺から少し離れた小さな路面店とマンションが並ぶエリアだが、日本移民資料館があるブラジル日本文化福祉協会の駐車場のほぼ目の前である。
静かにこちらを見つめるシャギーニャスの視線から、怒りがじわりと伝わってくる。
Achei interessante este grafite na Liberdade. Está escrito em japonês "Liberdade não é só Japão" com a imagem de Chaguinhas, um negro morto na forca no séc XIX. O bairro tinha presença marcante de negros e indígenas antes. O apagamento de memórias coletivas é política de Estado. pic.twitter.com/QUR2u1B6Tw
-- レナト (@rti123456) May 5, 2023
そして今年5月、市議会にて広場を「リベルダージ・アフリカ - ジャパン広場」にする法案が同月31日に可決された。
2018年に「ジャパン」が追加された際、標識は変更されなかったが、今回は「アフリカ - ジャパン」という新しいものに変えられる予定だ。
地下鉄の駅名が変更されるかは現時点では不明である(変更には62万レアル=約1,785万円の費用がかかると言われている)。
こうして「アフリカ」がジャパンの前に追加されたことにより、ブラジル建国前から続くリベルダージの言い伝えが名前に刻まれた。
いっそのこと、「リベルダージ広場」に戻してはどうだろうと思うのだが、一度つけられた「ジャパン」を取らなかったのは、ブラジル人による日本人移民への感謝の気持ちと敬意なのだろう。
日本人移民がブラジルで作り上げた功績は計り知れない。
同時に、奴隷として350年以上この地を支えてきたアフリカ人がいることも忘れてはならない。
もし「アフリカ」の名前がなかったら、私も駅前の教会にも袋小路の礼拝堂にも入らず、リベルダージの歴史をしる機会がなかっただろう。
そうなると、ブラジルにやってきた全ての人々が尊重し合ってほしいという気持ちもある(それなら、「リベルダージ・アフリカ - アジア」が良いような気もするが)。
人種異なる人々が様々な事情でこの土を踏み、リベルダージ(自由)を求めていた。
リベルダージに不思議な活気があるのは、ご先祖様のメッセージなのか。
そんなことを考えながら今日もリベルダージを歩くと、駅前のカフェには行列があり、大阪橋ではセルフィを撮る若者であふれていた。
<補足>
・「リベルダージ」の地名の由来は、上記のとおりシャギーニャスの処刑時の話の他、奴隷制度廃止と関係している説もある。
・リベルダージの歴史についてはサイト『移民文庫』にある『リベルダーデ』1996年リベルダーデ商工会発行を参考にさせていただいた。同サイトでは絶版となった数多くのブラジル移民文学を日本語で読むことができる。是非活用して頂きたい。
・写真の撮影日はいずれも2022年~2023年6月
著者プロフィール
- 島田愛加
音楽家。ボサノヴァに心奪われ2014年よりサンパウロ州在住。同州立タトゥイ音楽院ブラジル音楽/Jazz科卒業。在学中に出会った南米各国からの留学生の影響で、今ではすっかり南米の虜に。ブラジルを中心に街角で起こっている出来事をありのままにお伝えします。2020年1月から11月までプロジェクトのためペルー共和国の首都リマに滞在。
Webサイト:https://lit.link/aikashimada
Twitter: @aika_shimada