中東から贈る千夜一夜物語
「伝統」と「現代化」のはざまで揺れるヨルダンの世界遺産ペトラ
ペトラ遺跡の動物虐待を改善するために PETA が果たした役割
このペトラ遺跡の動物虐待の問題を打開するために何度もヨルダン政府に働きかけたのが、この記事の前のほうで触れた PETA (People for the Ethical Treatment of Animals=動物の倫理的扱いを求める人々の会)。PETA は動物の権利を守るための団体で、世界中に 900 万人のメンバーがいます (PETA のホームページ)。
PETA は 2018 年にペトラ遺跡での動物虐待の問題を赤裸々に暴露しました。そして、こうした PETA の呼びかけに呼応する形で、サウジの Khaled bin Alwaleed 王子率いる KBW ベンチャーがペトラ遺跡の動物虐待の恒久的な解決に乗り出すための資金を提供しました (こちらの記事を参照)。ちなみにサウジの Khaled bin Alwaleed 王子はアメリカのカルフォルニア生まれで、ビーガンライフで知られています。
出資金の用途としては、遺跡内に動物たちの水飲み場を作ること、人間移送用の充電式ゴルフカートを遺跡内に整備すること、遺跡内の道を整備して歩きやすくすること、動物たちが定期的に医療を受けることができるクリニックを整備することなどが挙げられています。
2019 年にはペトラ遺跡のそばに動物のためのクリニックが設立され、ペトラ遺跡で働く動物たちに無料で治療が施され始めました。また治療を施すだけではなく、ベドウィンたちに動物の正しい扱い方の教育も行っています (PETA のホームページ)。こうした画期的な変化を遂げつつあったペトラ遺跡を襲ったのがコロナです。
コロナがペトラ遺跡の動物たちに及ぼした影響
他の国々にたがわず、ヨルダンもコロナの影響をもろに受けました。もともと資源に恵まれないヨルダン。観光が主な産業でした。ヨルダンは北海道くらいの大きさの国ですが、この中に 800 ほどの旅行会社がひしめいていた時もあります。ところがこのコロナでヨルダンもロックダウンを実施し、鎖国状態に追い込まれます。当然のことながら、観光業に携わっていた大勢のヨルダン人が仕事を失いました。
観光だけが唯一の収入源だったペトラでは、ロバや馬などの動物たちに餌をやることすらできない状況に追い込まれました。観光客がいない空っぽの遺跡内に取り残された動物たちは、餌を探して遺跡内をうろうろ。でも観光客がいない遺跡内に餌などはありません。プラスチックの袋などを食べてしまうロバも続出したようです。観光客が多かったときは収入源としてさんざんこき使われた動物たちが、コロナになると餌を与えられずに放っておかれる...なんとも理不尽な状況です。
また遺跡内には猫や犬もたくさん住んでいました。もちろん飼い猫・飼い犬ではなく、野良たちです。観光客が途絶えた遺跡内に食べ物はありません。
PETA では、コロナ中に収入がなくて動物に餌を与えることができないベドウィンたちに動物の餌を提供しています。ただしこの餌に野良猫や野良犬たちへの餌も含まれていたのかどうかは確かめられていません。とはいえ、コロナによる規制が解かれ始めた昨今はヨルダンにも観光客がじわりじわりと戻りつつあります。ペトラ遺跡にいらっしゃる方には、遺跡内の犬猫のための餌を少し持ってきていただけたら...と個人的には希望しています。
ペトラの歴史を変えるゴルフカートの導入
さて、導入部分で触れた歴史的な変化ともいえるゴルフカートの導入に話を戻したいと思います。今回ゴルフカートが導入されたのはペトラ遺跡全体ではなく、遺跡の入り口からシークを通ってエルハズネに至るまでの区間。この部分の乗馬と馬車乗りにゴルフカートが取って代わりました。チップをめぐって常に起きていた争いもこれで解決される...と期待されています。またゴルフカートの導入により、馬を提供していたベドウィンたちの収入が最終的にはさらに増えるといわれています。
というのも、馬車の乗客は 2 人 (御者を除く) だったのに対して、ゴルフカートの利用人数は 5 人 (運転手を除く)。さらにこの移動手段が導入されたことで、これまではペトラ訪問をあきらめていたようなツーリストも遺跡を訪れることができるようになります。高齢者や障がいを持つ方たちがその中に含まれます。
このゴルフカートに関しては、利用料金に加えてチップの額もあらかじめ指定されています。あらかじめ指定されているならチップといわないのではないかとも思いますが...、利用料金とは別に設定されているのでチップという扱いです。中東にはチップの習慣はもともとありませんでしたが、欧米からのツーリストが増えるにつれてこの習慣がヨルダンでも確立されました。いずれにしても、こうしたクリアな料金設定により遺跡内のベドウィンたちと無駄に争わなくても良いというのは非常に画期的な変化といえます。
このゴルフカートの導入は、もともとは 2020 年に行われる予定で計画されていました。しかし実際の導入は今年 (2021年) にずれ込みました。コロナのために導入が遅れたといわれていますが、コロナだったから導入がスムーズに行ったのではないかと個人的には思っています。典型的なアラブ (この場合、アラブ世界から出たことがないアラブのことを指します) には「先行投資」という概念はあまり存在しません。さらに新しいものを受け入れるのが非常に苦手。ですから観光客がこれまでと同じように来ていたとしたら、ゴルフカートに切り替えるのは至難の業だったのではないかと思います。
ところがコロナ禍になり、観光客がぱったりと来なくなりました。執拗な反対なく新しいものを導入する絶好のチャンスだったといえます。そして無事に導入が済み、コロナによる規制が解かれ始めて、ゴルフカートがペトラ遺跡で利用され始めています。
とはいえ、このゴルフカートは先ほども書いたように遺跡内全体で使われているわけではありません。モナスタリーに向かう 900 段の階段ではいまだにロバが主な移送手段。もちろん徒歩で歩く人がほとんどですが、徒歩以外の移動手段は今のところロバしかありません。今後この区間がどのように「現代化」されるかについては未定です。個人的には、ロープウエー (ケーブルカー) のようなものが整備されればよいなと思います。イスラエル側にあるマサダ要塞が良い例です。とはいえ、景観を損なうという声もあり導入はなかなか難しそうです。
「伝統」と「現代化」のはざまで
私自身はお客様のアテンドでペトラ遺跡には何度となく足を踏み入れてきましたが、打ちたたかれ酷使される動物たちを見る機会が減るというだけで、精神的なストレスがかなり軽減されるように感じています。
ペトラがナバテア人の王国の首都として栄えた 2000 年以上昔には、確かに動物だけが移動の手段でした。でも見る人を不快にさせるほどに動物たちを酷使しながら「伝統だ」と主張するのは、明らかな取り違えだと思います。古代ペトラで動物たちは日々の移動の手段として使われていたものの、金儲けの直接的な手段として使われることはほとんどなかったはずです。ペトラの伝統を守りたいなら、観光客を乗せずにロバや馬を遺跡内に配置したらいいだけの話です。ただし、お金にならないことはしたくないというベドウィンたちの声が聞こえてきそうですが...。いずれにしても、動物愛護という概念がほとんど存在しなかったアラブ世界も、時代の流れに伴って変わらざるを得なくなっています。
ペトラに限らず、私たち誰しもに慣れ親しんだ伝統 (や習慣) があり、愛着を持っているかもしれません。しかし伝統がいつも最高の手段であるわけではない。もっと良いものに取って代わるのなら、それに越したことはありません。ペトラ遺跡で起きている「現代化」を心から歓迎したいと思います。
著者プロフィール
- 木村菜穂子
中東在住歴17年目のツアーコンサルタント/コーディネーター。ヨルダン・レバノンに7年間、ドイツに1年半、トルコに7年間滞在した後、現在はエジプトに拠点を移して1年目。ヨルダン・レバノンで習得したアラビア語(Levantine Arabic)に加えてエジプト方言の習得に励む日々。そろそろ中東は卒業しなければと友達にからかわれながら、なお中東にどっぷり漬かっている。
公式HP:https://picturesque-jordan.com