あなたは、鈴木花純を聴いたことがあるか? 2017年最も注目する入魂のアイドル
歌うために10キロの体重増もいとわない
鈴木花純は、しばしば歌に対する思いをライブなどで語ることがある。たとえば次の言葉は、彼女のtwitterでのものだ。
うちは永遠に歌を歌いたい!
— 鈴木花純*1stワンマン2017/1/9 (@terejia_kasumi) 2016年12月27日
自分がこの世に居なくなった後も歌い継がれるような楽曲を残したい!っていうのが夢。
自分がど〜..とかより
テレジアの歌を永遠に残したい。
こんな私を見つけてくれて育ててくれて感謝しかないです。
続く...
永遠を唄うこと。ここに鈴木花純のアイドルとしての特異性が集約されている。日本のアイドルの多くは、「物語消費」の枠組みで機能している。物語消費とは、メイスン大学のタイラー・コーエン教授の用語だ。人々は何かを消費するときに、その消費対象に「物語」を託し、そこに感情移入の特異点をつくることでより消費行為に没入する。これをアイドルに適用したのが、筆者の視点だった。
多くの日本のアイドルは独自の「物語」を織なし、それによってファンとの絆をより強固なものにして消費の仕組みを構築する。鈴木花純の「物語」の核心は、ほかのアイドルが一瞬の刹那の中で生きているのに対して、あくまでも永遠にこだわる。自分がこの世を去ったあともその楽曲が永遠に唄い続けられる。このひとつの夢がうたかたとは思えないほど、鈴木花純の熱唱には時間を超えるものを感じるときがある。それはまだ完成の域ではない。だが、見事なほどその歌声は鍛えられたものだ。特に低音部の表現が絶妙である。地下アイドルの多くの現場が決して音響環境がいいとはいえない。そのため鈴木の繊細な表現をうまく音として拾えないライブ会場もある。その点は、遠藤プロデューサーは意識的で、ライブハウスの選択もさまざまな制約の中でベストを目指している。
鈴木花純の自己管理はさらに徹底している。一時期、風邪を引き金にして声がでなくなり、ライブなどをキャンセルしたことがあった。彼女の何度もあった試練のこれもひとつのエピソードである。復帰のライブは、彼女の涙で始まり涙で終わった。それからは常に体の一部に小型の「そうち」(鈴木談)をつけている。これはウィルスを除去する薬剤が噴出する装置らしい。常にその衣装につけている。
さらに本来は痩せているのを心配されるほどの体つきなのだが、風邪を引いたのはウェイト不足ではないか、と鈴木はなんと今年のワンマンライブまでに10キロ体重を増やした。アイドルにとって体重を増やすことは、その容姿の面からも決して得策ではないだろう。だが、なによりも唄うことがすべてなのである。まるで、オスカー賞を受賞した俳優のロバート・デニーロがボクサーを演じるために体重増をしたエピソードを思い出させる。
鈴木はまさにファイターでもある。そういえば、彼女はしばしばライブ中に、ふっと息をはき、「よし」と小さく気合いをいれることがある。それはまさに格闘技に挑む選手のようでもある。ただし彼女は冒頭にも書いたが、10キロ増えてもきゃしゃであり、また沖縄にライブにいけば、ファンがあまり求めてもいない(?)のに、自分からぱーっと水着になり撮影会に挑む、そんなアイドルとしての天真爛漫さを決して失わない。実際にライブ中のトークは、その歌の世界と対照的にどこかおかしさが漂うものだ。
筆者が、鈴木花純と出会ったのはそんなに昔ではない。実につい最近だ。これもまたアイドル界でも屈指の声量の持ち主である、はちきんガールズの石川彩楓とのツーマンライブでである。石川もまた苦難を乗り越えてきたアイドルだ。このツーマンはいわば試練によって心のどこかで傷や孤独の影をもったふたりの少女が出会い、たがいの中に自らをみいだした、そのことが観客全員にわかった稀有なライブであった。筆者は不覚にも、ライブの最後に友情をたしかめるように抱き合うふたりの姿をみて涙した。ここには人のこころを救うものがある。
テレジアの鈴木花純。その存在を世界に伝えたい。
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