少子高齢化の「漆器の里」を襲った非情な災害――過酷すぎる輪島のリアルから見えるもの
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「母は避難所におったら確実に災害関連死でした」と言う二井は、生まれ育った輪島を離れ、金沢市内の1.5次避難所に移ることにした。蒔絵師だった祖父に始まり、父の代から約70年続く店も、今後の見通しは全く立たない。
「店を立て直すと言っても、20代とか30代であれば違いますけど、私ももう60ですから。この先もう何年できるか分かりませんし」と、二井は言う。
輪島塗は1人の人が全工程を仕上げるのではなく、各工程に専門の職人がいて、全て分業制になっている。各工程の作業をする人が1人でもいなければ完成しない。
「地震前から、高齢化であと20~30年すると職人さんの数が極端に少なくなるのは目に見えていたんですが、今回の地震で避難されて廃業される人がたくさん出てくるでしょう。同業の人とも話してますが、おそらく半分くらいは廃業すると思います」。
明日には金沢に向かうという二井の表情には、疲れと不安がにじんでいた。
家屋倒壊の明暗を分けたもの
輪島市内で避難所生活を送る人は19日現在4797人に上る。住家被害の全容はまだ把握すらできていないが、市の中心部では至る所で木造家屋が崩れ、その隣で比較的新しそうな家が立っている光景が目につく。国の耐震基準は1981年に大幅に変更され、95年の阪神淡路大震災を経て2000年にさらに耐震基準が見直された。
住民たちに話を聞くと、同じ輪島市河井町内でも07年の能登半島地震より前に建てた古い家ほど、大きく崩れているという。逆に言えば、前回の大地震で被害を受け、大きく建て替えたり改築した家は、倒壊を免れている場合がある。
赤紙を貼られたものの大規模な全壊には至らなかった二井の店も、01年に丸ごと建て替えていた。在宅避難をしている住民に聞くと、「07年に全壊し、その2年後に建てた」という声もあった。それでも玄関には「要注意」と書かれた黄色い紙が貼られ、電気がないなか懐中電灯とろうそくで生活を続けていた。
1人で小さなリュックを持ち歩いている女性(74)に声をかけると、自宅は「17年前の地震は大丈夫だったけど、今回はぺしゃんこ」だと言う。彼女は、夫と母親と3人で避難所に身を寄せている。これから倒壊した自宅に銀行の通帳など大事なものを取りに行くところで、震災後、自宅に戻るのはこれが初めてだ。2階建ての自宅に着くと、1階部分が完全に倒壊し、1階の車庫にある車も外から判別がつかないほど押しつぶされていた。
玄関が失われたため自宅の裏手に回り、1階の割れた窓に辛うじて残された高さ80センチほどの隙間から、身を折り曲げて家の中に入っていく。彼女はあの日、98歳の母親とこの80センチの隙間から外にはい出たのだ。
今にも崩れ落ちそうな家の中から、「ああ、だめだ」という声が聞こえる。「大事なもの」の在りかに通じるスペースはなく、手にできたのは「手続きしなきゃいけないから」という書類と、化粧水1本だけだった。