アメリカに避難した27万人のウクライナ難民に迫る、タイムリミット
AN IMMIGRATION LIMBO
臨時許可の入国者にも「ケース・バイ・ケースで」、U4Uにより送還猶予を与えられた「一部のウクライナ人とその家族」と同等の扱いをする、というのである。
だが詳細は発表されておらず、臨時許可を受けた人たちが全員引き続き滞在できるかどうかは不透明だ。
やっと生活が落ち着いたのに
国外避難から「1年たって子供もようやく学校に慣れ、友達もできて、空腹に耐えたり駅で寝泊まりしたりした恐ろしい記憶が少しずつ薄れ始めていたのに」と、アタマスはため息をついた。「また先の見えない不安に子供をさらすなんて」
戦争の終わりは見えないのに、期限が延長されなければどうなるのか。アタマスはアメリカにたどり着く前に、息子と家族の友人の高齢者を連れ安全な避難先を求めて1カ月半ドイツ各地を転々としたという。それは想像を絶するほど過酷な旅だった。
またぞろ不安な旅をするのを恐れているのはアタマスだけではない。「当初は状況が好転したらすぐに帰るつもりでウクライナの国境近くに滞在しようとした」と、マリア(姓を伏せるという条件で取材に応じた)は話す。けれども祖国に帰る望みは日に日に遠のいていった。
マリアは娘と共にまずポーランドを目指したが国境の長い列を見て断念し、ハンガリーに入った。首都ブダペストに2週間滞在したが、この国には長居しないほうがいいと助言する人がいた。昨年4月の総選挙でロシア寄りで鳴らすオルバン・ビクトル首相の再任が決まったからだ。
マリアと娘が次に入国したのは、ウクライナ難民の大量流入に圧倒されていた小国ベルギーだ。
「ベルギーはとても温かく迎え入れてくれた」と、マリアは言う。「でも、もう大勢のウクライナ人が逃げてきていた」。そのため、娘を通わせる学校を見つけるのにも難儀した。
マリアは長く腰を落ち着けて過ごせる場所を求めて、家族の1人が住む米コネティカット州を目指すことにした。しかし、この時点では合法的にアメリカに入国する道がなかった。ビザ発給の面接を受けられるのは、早くても今年9月だった。
そこで、マリアと娘はスペインに向かい、さらにメキシコに渡ると、ティフアナで国境を越えてアメリカに入った。そのあとニュージャージー州に飛び、そこからコネティカット州グリニッジにたどり着いた。
「アメリカにやって来てからの10カ月間は、楽な日々ではなかった」と、マリアは振り返る。「それでも、ハンガリーでの2週間は、それとは比較できないくらいつらかった」。マリアと娘の滞在期限は4月23日だ。