社会問題に無関心なのにプライドだけは高い...... 日本のスポーツ選手が「鼻持ちならない存在」に陥る理由とは
「勇気ある発言」をしたアスリートはごく一部
しかしそれができなかった。日本人アスリートには社会的な発言をする者が極めて少なかった。強いて挙げるなら、多くの国民が望まない状況下で開催することに一貫して疑問を投げかけていた陸上の新谷仁美選手が、「選手だけが『やりたい』では、わがまま」だと発言したくらいだろうか。あるいは水泳の松本弥生選手も、「一国民として言うなら、今やるべきではないとも思う」と複雑な胸の内を打ち明けていた。
元アスリートに広げれば、元陸上選手の有森裕子氏がアスリートファーストではなく「社会ファースト」を、元柔道家でJOC理事(当時)の山口香氏は「オープンな議論」を呼びかけ、両者ともに開催ありきではなく本質的な視点から大会のあり方の見直しを訴え続けていた。
これら勇気ある発言は注目に値するが、全体からみればごく一部でしかない。
このままでは札幌五輪も東京五輪の二の舞に
アスリートは試合でパフォーマンスを発揮することがその役割だから、社会的な発言などしなくてよいという風潮がある。だが、私はそれにくみしない。なぜなら社会状況に関心を向け、ここぞというときに発言する姿勢をもたなければ時の権力者に利用されるだけだからだ。
アスリートが社会性を身に付けなければ、健全性やフェアネスといった偽りのイメージでスポーツが塗り固められていつまでも消費され続ける。スポーツの政治利用や商業利用は続き、スポーツ・ウォッシングはなくならない。アスリートがだんまりを決め込んだままでは、札幌市が招致を目指す2030年冬季五輪は先の東京五輪の二の舞を演じることになる。
社会性の欠如はスポーツ界の構造的な問題
ただし、この「社会性の欠如」を、アスリートだけの責めに帰すのはいささか酷であるとも思う。
成城大学の山本敦久教授(身体文化論)は『アスリートたちが変えるスポーツと身体の未来』(岩波書店)の中で「現代アスリートは、資本、国家、メディア、プライベートのみにつながれていて、社会性を喪失させられてきた」と指摘する(強調筆者)。
つまり、アスリートを取り巻く環境にも問題があるのだ。先に述べたIOCの通達や箝口令も踏まえ、アスリートの「社会性の欠如」は属人的要素だけに起因するのではなく、スポーツ界が抱える構造的な問題として捉えなければならない。
幼い頃からそのスポーツに取り組むアスリートは、競技力にさえ秀でていればそれでよかった。競技成績を残すためだからと、理不尽な言動を繰り返す指導者にも、無理難題を押しつける先輩にも、異議を唱えることなく耐え忍び、保護者をはじめ周囲の期待を裏切らないよう自らを奮い立たせてきた。運動部活動をはじめとする若年層のスポーツではおおむねこうした傾向があり、とりわけ日本においては顕著である。
理不尽に耐え、期待に応える。ここには「けなし」か「励まし」かの違いがあるにせよ、「他者からの介入」という点で共通している。「けしかけている」ことに変わりはない。
つべこべいわずに練習しろ/努力は必ず報われる
「無理」とか「できない」とか言うな/あきらめなければ結果は出る
まだまだ練習が足らん/あなたには才能がある
スポーツ以外のことは考えるな/ひとつのことに集中するのが美徳だ
スポーツだけに打ち込むあまり視野が狭くなる
叱咤にしろ激励にしろ、とどのつまりは鞭を打つか人参をぶら下げるかの違いであり、これらの言葉がけから伝わる暗黙のメッセージは、「あなたが生きる道はこれしかない」に他ならない。