盲目のスーダン人が見た日本の「自由」と「課題」
BEYOND THE BRAILLE BLOCKS
日本の暮らしに関する話に戻ると、視覚障害者が一人で外出できる自由の前提には、安全性が挙げられる。目が見えないとどこでどんな危険があるか分からないので、安全な社会はありがたい。貧富の差が少ないことは、日本の治安が保たれている大きな要因だと思う。
一方で、公共性の高い施設やサービスにおけるデジタル化の遅れが不自由さを招いている。多くの役所や銀行では紙の資料を前提としている。視覚障害者にとって、書類を読むこと、記入することは相当な労力を要するもの。「誰かに読み上げと代筆をしてもらえばいいじゃないか」と思うかもしれないが、それでは自分のプライバシーをさらすことになる。
せっかくマイナンバー制度があるのだから、ウェブ上で入力する形式がもっと普及することを願っている。
日本に限らず「障害者」は一くくりにされがちだが、求めるニーズは相反する場合があることも知ってもらいたい。
例を挙げれば、点字ブロックは車いすの移動を妨げる障壁になり得る。反対に、視覚障害者は段差があることで場所を覚えるので、段差がないと車道に飛び出すなどの大事故につながる危険性もある。
そんなわけで、全ての人にとって便利な社会をつくるのは確かに難しい。だからこそ、今あるハードに人的なサポートがうまくかみ合うような形が理想ではないだろうか。
日本人は「高度なインフラをつくったからもう大丈夫」と思い込んでいる節があるけれど、人によって最適なサポートは違うはず。それが何なのかを皆で考えられるようになれば、より豊かな社会になるはずだ。
外国人であり視覚障害者であるという私の経験は、特殊なものかもしれない。ただ、目が見える外国人と目が見えない外国人では、決定的に違うことがある。
それは「日本語の習得が生死に関わる」ということ。目が見える外国人は、言葉が話せなくても、ジェスチャーを使って買い物をしたり電車に乗ったりすることができる。目が見えないと、どこに何があるのか分からないし、人の助けなくして生活はできない。
自分はいま困っていて、何をしてほしいのかを言葉で意思表示しなければならない。こう聞くと大変に思えるが、私にとっては日本語を習得する大きな動機になった。おかげでエッセーを書く機会などにも恵まれ、9年前には自分の半生を描いた『わが盲想』(ポプラ社)という本を出版することもできた。