「皇室フィクション小説」を書評が黙殺する理由
――小説の中に「天皇の地位は憲法が『日本国民の総意に基づく』と定めている」と書かれています。本当にその通りで、われわれはそれを忘れている。あと、皇室のプライベートをスキャンダルとして消費するのに、一方でシステムについては語らないアンバランスがある。
森:天皇個人に対してはさすがのメディアも(踏み込まない)。美智子さんについては皇太子妃時代も含めてバッシング的なものはありましたから、皇后まではできる。ただ、さすがに「本丸」の天皇はメディアも書けない。
――小説の中で、山本太郎参院議員の直訴の後に、天皇ご夫妻が足尾銅山の資料館を参観して直訴状を見る、というくだりがある。事実はその通りなのですが、「天皇のメッセージ」を僕らは読み解いてこなかったんじゃないか、と思いました。
森:日韓サッカーワールドカップの時、天皇が「桓武天皇の母親が百済の王の子孫である(と続日本紀に記されている)」という発言をして、かなりびっくりしたんです。でも日本の新聞やテレビは大きく報じない。逆に、韓国の東亜日報などは一面の大見出しに持ってくる。その時にすごく違和感を持った。
その発言がうっかり出たとも思えない。それから注視して見ていると、米長邦雄(永世棋聖)さんが「国旗国歌を日本中の学校に」と言ったときには、「強制しないことが望ましい」と答えられた(注2)とか、あとは行動ですよね。朝鮮半島からの渡来人にゆかりのある高麗神社や満蒙開拓平和記念館などへの訪問はプライベートな旅行です。なんとなく気になり始めたら、どんどんいろんなものが出てきて。
これって誰だって気になるはずだし、普通の感覚を持っていれば、もしかして天皇は何か言おうとしてるんじゃないのかな?って思うはず。(小説を)読んでくれた人の反応は、やっぱりそうですねみたいなのがすごく多い。でも誰も公式には言葉にしてこなかった。
――自己規制の側面はあるでしょう。メディア各社の宮内庁担当記者は当然その辺は把握しているはず。でも勝手に書かないし、書けない。
森:今回の本、まだゲラになる前に「(皇居の)門の数は実際にいくつなんだ」とか「侍従の控え室は本当にあの御所の中にあるのか」という疑問がいくつか沸いて、菊池さんに相談すると、「じゃあ、ちょっと何人か宮内庁担当記者の知り合いがいるから聞いてみるよ」と。でも全部から断わられた。「誰も教えてくれないよ」と。
――確かに、この小説は皇居内のディテールが細かく書かれています。想像の部分が大きいんでしょうか。
森:想像もあるし、実は宮内庁に直接電話したら結構教えてくれるんです。それで聞いたところもある。
――オウムと同じですね。意外に電話したら出てくれる。(建物にも)入れてくれる。(質問にも)答えてくれる。自己規制をしてしまう心理が問題なのかもしれません。
森:『A』の時も、海外の映画祭に行くと大体質問されるのが、なぜあなただけ撮れたのか、ということ。オウムに交渉して撮らせてくれって言ったから撮れたんですって言うと、何でほかのメディアはそれをしないんだ?って言うから、いや、それは僕に聞かれても分かんない。
コネがあったわけでもないし、強力なパッションがあったわけでもない。仕事の一環です、最初は。当時はメールなんかなかったです。被写体になる人に手紙を書いて、これこれこういう者ですけど、こういうものを考えています、と伝えてから電話かけてっていうのが僕たちのその時代の普通のルーティンだったので、それをオウムにやったらOKが出た。
で、後から荒木(浩)さんに言われたのが、ああやって手紙を書いてきたのは森さんだけです、と。......僕が特別なのではなくて、むしろ普通なんです。ならばなぜ僕が突出するかというと、周りが勝手に地盤沈下しているから。今回もちょっと近いですね。
――記者クラブ制度の話になるのかもしれないですけど、僕も毎日新聞にいたときに、記者クラブにいて自主規制すると安心する感覚はありました。記者クラブの中の平穏が保たれて、(取材相手である)権力との関係もある程度安定する。
森:今、長岡さんが「安心」とおっしゃったけど、『放送禁止歌』を撮ったときに実感したんです。本来、誰も放送禁止にしていなくて、自分たちで禁止にしたことにいつの間にか気づかなくなっていた、という現象。要するに標識なんですよね、放送禁止歌は。その標識には、ここから先は危険って書かれている。本来は危険なエリアはないんです。でも広い野原に急に置かれて、もう自由にどこに行ってもいいよって言われると不安になる。
だから日本のメディアは自分たちで標識を作るんです。この標識から向こうに行かなければ安全なんだという証明になる。自分たちでどんどん標識を作って、その標識の内側は安全だと安心して。でもじゃあその標識は誰が作ったのかを自分たちで忘れてしまっている。そのシンボリックな存在が放送禁止歌だけど、同じメンタリティーはいたるところにあるんじゃないかな、という気がしますよね。
――あちこちに残っていますよね、日本の社会って。
森:日本人はそもそもそういうところが強いけど、やっぱりジャーナリズムやメディアはそれじゃあだめでしょう。
――もちろんどの記者もジャーナリストである以前に会社員で、会社の論理を優先してしまうというのはある。
森:それはよく分かるし、この本の中でテレビをめぐって「克也」と往年の女優とマネージャーがアフリカで議論するシーンがありますが、そこで克也が言ってることは僕の本音でもある。テレビは営利企業です。どうしてこんなにくだらないことを放送するんだ?って言う人はいっぱいいます。僕もしょっちゅう怒られているけど、それに対してリアクションの本音は、いや、だってあなた方が見るからこんなくだらないことやるんだよ、です。ちゃんとしたものを社会が求めてくれれば、メディアもちゃんとするんですよ、と。
――雑誌に来てマーケットが大変だということはよく分かりました。それはそれで興味深いし、面白い部分もある。売らないと話にならないですし。
森:『i-新聞記者ドキュメント』を東京国際映画祭で上映したときに、上映後にいくつかメディアから取材を受けたんですが、中国メディアの記者がこう言ったんです。
「私たちの国のメディアは自由にものを書けません。それは共産党というとんでもない権力が上にいるからです。でも映画を見ながら思ったけど、日本のメディアも思うようにものを書けない。上にそんな存在がいないのに、自分たちでとんでもない存在をつくってしまっている。結果的に中国と一緒じゃないかと思ったけど、どうですか?」。こう言われて、何も答えようがなくて。
――2012年秋に中国共産党の党大会を北京で取材しました。ご存じの通り、党大会は中国政治最大のイベントです。その次の年の1月に皇居の一般参賀に行ったんですが、共産党大会の警備の様子と一般参賀の警備の様子がものすごく似ている。何か大切なものを守るために、とにかく警官をできるだけ動員して、警備車両もずらりと並べて近寄る者の全てをチェックする。全てを規制する、危ないものを排除する感じがものすごく似ている。
森:面白いですね。
――両者には何か共通するものがある。権威を守る、守ろうとする「心の働き」は中国も日本も変わらない。中国の場合は共産党という明らかな存在が規制をかけてくるけど、日本はモヤッとしている。
森:モヤッとしているし、天皇制が強権を持っているかというとそうじゃない。
――自分たちで規制している部分もあるかもしれない。「自分たちを規制してくれるもの」を人間の性(さが)として持ちたいと思うところがあるのかもしれないですね。
森:「ぬかずく対象」を人が求めるのはあると思うんですけれど、でもそれをずっとやっていたら隷属状態から抜け出せない。だから市民革命を含めて、自由と民主主義と人権を勝ち取ってきたわけで、やっぱりこの国だってできないはずはないと思うんです。
(注2)2004年10月の園遊会の席上、「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話しかけた東京都教育委員の米長邦雄氏に対し、上皇が「やはり、強制になるということではないことが望ましい」と述べられた。