ロシア人YouTuberが「炎上」する理由を本質から考える
新自由主義が振る舞い方を規定するものとなる
なお本書に関していえば、とても興味深い指摘がなされている。
ご存じのとおり、今日の社会では多くの対立が生じており、それはしばしば左右(リベラル派と保守派)対立という文脈で語られがちだ。しかし、多くの場合その背景には、左右対立の構図に還元されることのない「モヤモヤ」した何かがあって、それが熱源になっているのではないかと著者は推測している。
そうした「モヤモヤ」にアプローチするための一つの見立てとして、本書では新自由主義(ネオリベラリズム)というもう一つの立場をそこに組み込み、やや異なる視角から問題を考えてみたい。ただしここで言う新自由主義とは、経済学的な意味でよりも、どちらかといえば社会学的な意味で用いている概念だ。
つまり市場原理のもとでの自由競争を重視するという経済政策上の理念が、人々の意識の中に浸透し、内面化されていった結果、やがてその生き方を律し、振る舞い方を規定するものとなる。そうして作り出されていった社会生活上の規範を捉えるために、本書では新自由主義という概念を援用している。(「はじめに」より)
つまり極端な自由競争の重視が、社会規範としての振る舞い方になった。そして、そこでは絶えず競争が行われ、監視のもとでの制裁が繰り返されることになる。極端な言いかたをすれば「制裁できればなんでもいい」わけで、"ロシア人だから叩く"という単純すぎる発想も、まさにそれに当たるのかもしれない。
つまり炎上という現象は、単純な左右対立の構図からストレートに生じるものでは必ずしもなく、新自由主義というもう一つの立場がそこに組み込まれることで、加速されていくという一面を持つものなのではないだろうか。(「はじめに」より)
コロナ禍で「弱者」の定義が変わってきた
説得力を感じさせるのは、少なくとも日本の場合、その際のターゲットとなるのは"前近代的なムラ社会のあり方"だという指摘である。そのためそこでは、「事前規制から事後監視へ」という考え方のもと、人々の振る舞い方を根底から組み直していくことが求められたのだという。
二〇〇〇年代前半の日本では、規制改革、行政改革、経済制度改革、さらに司法制度改革など、新自由主義的な諸改革が急速に進められていった。一方でインターネットが普及し、情報化とグローバル化の大波が押し寄せてくるなか、それらの動きが相乗し、変革の波が社会の隅々にまで及んでいく。その過程でわれわれの日常は、それまであまり馴染みのなかった多くの語彙に取り巻かれることになった。リスク、セキュリティ、自己責任、ガバナンス、コンプライアンス、市民裁判、内部告発、厳罰化、などなどだ。(28~29ページより)
上記の語句はもともと、企業の活動、あるいはそれを律する立場にある法曹の活動に向けられたものだった。しかし、やがて一般市民の生活の範疇でも流通するようになり、ついに個々人の振る舞い方を規制するものになっていったわけだ。