アカデミー賞「ビンタ」騒動、黒人男性が絡むと些細な暴力事件も炎上するアメリカ社会
Don’t Blow Up This Slap
騒動から24時間足らずで、メディアには考え得る限りの反応が出そろった。暴力を支持するような行動を公の場で取るべきではないという意見が出た一方で、脱毛症のジェイダを揶揄する悪趣味なジョークを口にしたロックを批判する声もあった。
賞主催の映画芸術科学アカデミーが暴力を非難する公式声明を出したことを、偽善だと批判する見方も一部にあった。アカデミーは長年、ハービー・ワインスティーンら性犯罪を働いていた映画界の大物を甘やかし、称賛さえしてきたではないかというのだ。
この騒動を、人種差別や性差別、障害者差別などと結び付ける見方もあった。他の多くの論点と同じく今回の騒動も、アメリカ社会で光を当てるべき問題は何かという点の受け止め方が人の数だけあることを示していた。
だが大学バスケットの平手打ち事件を思い出して、私はこう考えた──スミスの平手打ち騒動を深刻に捉える必要はない。基本的には単純でありふれた出来事を、複雑な社会の趨勢と結び付けて理解しようとしなくていい。
今回の騒動は、個人的な侮辱(あるいは真偽はどうあれ、当事者がそう受け取った一件)を理由に暴力に走った男性がいたというだけのことだ。
黒人男性が絡むと社会的な問題に発展する
スポーツファンとしてこういう場面をよく目にしてきた私が心配したのは、軽い暴力事件でも黒人男性がそこに絡んだだけで議論を呼ぶ社会的な問題に発展することだった。
アイスホッケーの試合ではよく乱闘が起こるが、ファンの間で人種の要素を加味したような議論にはならない。スミスの一件が問題になったのは、かしこまったアカデミー賞授賞式では前例がないからだろうか? そうかもしれないが、もう少し考えてみたい。
ミシガン大学とウィスコンシン大学の小競り合いは国民的な議論に発展し、ミシガン大学のハワードの自制心の欠如と、彼にはどのような処罰が適切かが話題になった。何らかの処罰が妥当というのが大方の見方だったが、中には過剰反応した人々もいた。
その1人が、スポーツ専門局ESPNで40年にわたって大学バスケット中継の顔を務めてきたディック・ビターリ。彼は「ハワードの許し難い行動には厳しい処罰を与えなければならない」と主張した。だが一方でビターリは、有望な選手の獲得に売春婦を使っていたとして告発されたルイビル大学の白人ヘッドコーチを臆面もなく擁護している。
ハワードは結局、5試合の出場停止処分を受け、公に謝罪し、処罰を経て復帰した。