「映画検閲法」に挑む新世代──90年代の香港映画ファンにこそ見てほしい
そうした名もなきヒーローと、彼らの間に生まれた仲間意識を中心に物語は展開する。もう1人の共同監督である任俠(レックス・レン)は、今の世の中には自殺に走る人たちの気持ちを受け止め、受け入れる場所がない、それが問題だと語っている。
デモに参加した人たちが実際に経験した絶望やトラウマを、『少年』は美化することなく描き出す。警察による虐待も描かれ、個々の登場人物が抱える葛藤も実に生々しい。
抵抗運動そのものではなく、それに参加したYYの命を救う行動に焦点を当てたのはなぜか。どうやらそこに、映画のスタイルに関する監督たちのこだわりがありそうだ。
デモ隊が香港の街を駆け抜ける場面には、香港映画伝統のアクションがあふれている。ロケで撮れなかった部分はスタジオで、人工的な照明や視覚効果で現場の緊張感や混乱を再現し、実写部分と合わせて、見事に作品化している。
お金はなくても自分たちの物語を伝えたい。そういう思いは、かつて任俠が師事した陳果(フルーツ・チャン)監督から受け継いだ。
陳果が97年に発表したインディー映画『メイド・イン・ホンコン/香港製造』は、予算がないので使い残しのフィルムで撮影されたが、その後に多くの国際映画祭でメジャーな賞を獲得している。
任俠によれば『少年』の撮影では「雨でも晴れでもスジュールは変えなかった」そうだ。
「何が起きても対応できるように、代わりのプランを用意していた。僕らの辞書に不可能の文字はなかった」
そう語る任俠だが、自分たちの作品を「インディー系」という特定の枠にはめるのはやめてほしいと考える。
いわゆる商業映画との違いは「誰かにもらった予算で作るかどうかだ」と、任俠は言う。つまり、スポンサーの意向を気にせず、自分たちの語りたい物語を観客に伝えるのが自分たちの使命だということ。しかし形式は選ばない、大事なのは「精神」なのだ。
香港の若い映画人が政治的に微妙なテーマに手を出せば、資金調達に苦労するのは必至だし、悪くすればブラックリストに載せられる。嫌な時代だが、彼らはそんな時代の色に染まらず、振り回されたりもしない。政治的な敗北の瓦礫の下から、新しい声が生まれている。
こうした映画人は、この都市の近年の混乱を引き起こした社会的・歴史的な力、そして文化の底流を描き出すために斬新なアプローチを試している。