池内恵、細谷雄一、待鳥聡史が語り合った「山崎正和論」〈1周忌〉
■池内 今回ご著書で言及された「近代主義右派」ですが、日本近代の、ある種、明るい部分に根ざしているわけですよね。
『政治改革再考』の39ページに「幕末開国期あるいは少なくとも戦後初期から連綿と続く、日本の社会に生きる人々の行動と、その集積としての日本の政治行政や世界経済のあり方を、より主体的かつ合理的なものにすることを望ましいとする考え方」と書かれていますね。
山崎先生は、満州から引き揚げた経験があるという話が先ほどありましたが、ある種、個人の自律性、あるいはその前提となる尊厳が本当に奪われる状態を原体験として持っているわけです。しかし、戦後ずっと、いろいろなやり方を経て、やっとここまで来たということに関しては、明らかに評価しています。
私たちが見ていた山崎先生は人生の最後の10年、20年であって、それは老いとか病とかで個人としての先生ご自身は大変だった時期だと思うんですけど、しかし、自らが生きてきた時代というものに関して、肯定的な感情が非常にあったと思います。どん底の状態から日本はよくここまでやってきた、と。
そういうところでの山崎先生の持つ明るさと、我々が知っている時期の山崎先生の明るさはつながっていたと思うのです。
これからの「社交」
■細谷 かつては自分が将来書くことになるとか、ましてや編集委員をさせていただくとは思っていなかったのですが、ちょうど我々が大学生だった90年代、『アステイオン』ってちょっと香りが違う雑誌で、恐れ多いというか、貴族的で上流階級の洗練された文化人が集うサロン的な空気があって、ちょっと近寄りがたいような空気がありましたよね。
戦後日本でどんなに学生闘争やイデオロギー対立があろうとも、権力とも距離を置いた知的な空間をずっと大切にして、それをサントリー文化財団が支えていた。
これはイギリスの「ジェントルマンズ・クラブ」とか、フランスの「サロン」などと同じで、会員制でかなり限定された人しか入れない。これは今や絶滅種なんじゃないかと思うのですが......。
今では海外のトップジャーナルに書くことが唯一の研究者の目的とされ、学問の専門化が進み、専門以外のことをやることに対する敵意さえも見られます。
今、山崎先生みたいな人が僕とか待鳥さんとか池内さんのゼミに3年生で入ってきたら、果たしてそういう人材を育てられるのかといえば、「それは学問じゃないよ」とか言って軌道修正させてしまうかもしれない。
専門分野以外の研究が許されず、絶滅しつつある時代に山崎先生が人と人をつないで大切に守り、蛮勇、つまり専門を越えて発言したり、書くことを励ましてくれた。もちろん、そこで何をやってもいいわけではなくて、品格やマナーにはこだわらなくてはならないのですが......。
「知識人が亡くなるというのは時代が変わる」と「中央公論」元編集長の粕谷一希さんもおっしゃっていましたが、山崎先生が亡くなられたということで、時代が変わるのではないかと僕は思っています。
そういった専門を越えて人と人をつなげて、柔らかい形での教養、知性というものを洗練した形で大切にする文化が学術の世界ではますます疎外され、ときには憎しみの対象となって中傷され、そのような麗しい伝統も消え去りつつあるのかなと。
池内さん、どうですか。こういったものは残るんですかね。なくなるんですかね?