インドのコロナ取材、欧米メディアの非常識...病室に押しかけ火葬を蹂躙
The Lurid Orientalism
欧米メディアが外国の災害を報じるに当たって無神経ぶりを発揮するのは、これが初めてではない。2011年の東日本大震災のときは、震災の犠牲者は二の次で、福島第一原発事故の放射能漏れというセンセーショナルなニュースばかりが報じられた。
しかもその内容は、文化的・人種的ステレオタイプに満ちていた。被害拡大を食い止めるために原発内にとどまった作業員たちは、「原発のサムライ」とあだ名され、「自殺的なミッションを遂行する原発のニンジャ」と報じられたのだ。
実際には、原発事故そのものによる直接的な死者は1人も出なかった。それなのに欧米メディアは、フクシマをチェルノブイリ原発事故になぞらえ、ヒステリックな反応をあおり続けた。その結果、外国の貨物船は、福島からどんなに離れていても日本への寄港を避け、一部の国は東京などから自国民を退避させた。
欧米メディアは、アフリカに対しても同じようなアプローチを取ってきた。いつまでたっても未開人だらけで、紛争や災害が永遠に繰り返され、ハッピーな顔をした人間がいない大陸、という扱いだ。
米兵の遺体写真はめったに報じられない
14~16年に西アフリカでエボラ出血熱が流行したときもそうだった。2年間の死者の合計は1万1325人。アメリカではつい3カ月前、コロナ禍により、わずか2日間でほぼ同数の人が命を落としていた。それなのに当時の欧米メディアは、遺体袋と現地の伝統儀式をドラマチックに報じ続けた。
15年には、こうした悲惨な場面ばかりを追い掛けたフリーランスの写真家が、ピュリツァー賞を受賞した。だが、昨年のピュリツァー賞では、受賞作も候補作も、今世紀最大のグローバルヘルス危機であるコロナ禍をテーマにしたものは一つもなかった。
欧米メディアが、人間の苦しみや悲しみ、絶望や愚かさをストレートに報道するのは、それが遠くで起きている場合に限られるようだ。米兵の遺体写真はめったに報じられないが、アフガニスタン人やイラク人の死を捉えた写真は、メディアにあふれている。
もちろん欧米メディアが全て同じわけではない(これまで言ってきたことは、米英系メディアの態度と言ったほうが正確だろう)。