「日本のお金で人殺しをさせないで!」ミャンマー国軍支援があぶり出した「平和国家」の血の匂い
各党が、米国や欧州などの国際社会と歩調を合わせてミャンマー国軍への強い姿勢を示すよう政府に要求することじたいは、間違っていない。だがいまひとつ腑に落ちないのは、その前提として日本独自の主張、つまり平和憲法の精神の尊重という視点が打ち出されていないことである。なぜなのか。
理由のひとつは、戦後日本の平和に血の匂いがひそんでいた事実に、私たちが気づこうとしなかったことと無関係ではないだろう。私たちの平和と繁栄にアジアの人びとが流した血が流れ込んでいたのは、ミャンマーの軍政と民主化とのたたかいが初めてではない。
ベトナム戦争(1960~75年)で、日本政府はベトナムを侵略した米国を日米安保条約を理由に支持した。だが、共産主義の悪から自由と民主主義を守るためとする米国の戦争の大義が、南北ベトナムの焦土化と無差別攻撃による住民の遺体の山の上に築かれようとしている実態が明らかになると、世界各地で反戦運動がひろがった。日本でも「ベトナム反戦」の国民の声がたかまった。しかし、この戦争で日本が莫大な戦争特需にあずかり、それが東京五輪後の不況克服に大きく貢献し、さらに日本が米国につぐ世界の経済大国への階段を駆け上がっていく道をひらいた事実には、ベトナムの平和を訴える多くの日本人はきちんと向き合おうとしなかった。
日本の経済発展が私たちの汗の結晶であることは間違いないが、その一部に日本が支持した米軍によって流されたベトナム人の血が流れこんでいることに私たちは気づこうとしなかったが、アジアの人たちはそのような日本のすがたを見逃さなかった。
日本が戦後、アジアから留学生や研修生を受け入れはじめたとき、「アジア文化会館」理事長として彼らと起居をともにして親身に世話し、「留学生の父」と敬愛された穂積五一氏は、ベトナム戦争への日本の対応をめぐる留学生たちの忠告を記している。「日本は終始、米国に追従し、『平和』を口にしながら、ベトナム人民の流血をよそにひたすら『利』を求めつづけていた。その『狡さ』と『穢らわしさ』は米国にまさっている。目を覚ましてください」
日本は1950年からはじまった朝鮮戦争でも、米軍の兵站基地として特需に沸き、戦後復興を予想外の速さで達成することに成功した。