「正しさ」から生まれた「悪」を直視する──哲学者・古賀徹と考える「理性と暴力の関係」
古賀:下水道を専門に研究していた宇井は、水俣病に衝撃を受け、大学の専門知が孕む問題性を指摘する論考を発表しました。
東大で21年間、「助手」のまますえ置かれながら、1970年から東大で仲間たちと市民向けの公開自主講座「公害原論」を開き、科学や技術の存在意義を問い直したんですね。自身が所属する東大すらも「建物と費用を国家から与えられ、国家有用の人材を教育すべく設立された国立大学が、国家を支える民衆を抑圧・差別する道具となって来た典型」と痛烈に批判しました。
「公害の被害者と語るときしばしば問われるものは、現在の科学技術に対する不信であり、憎悪である。衛生工学の研究者としてこの問いを受けるたびに、われわれが学んで来た科学技術が、企業の側からは生産と利潤のためのものであり、学生にとっては立身出世のためのものにすぎないことを痛感した」(宇井純 『公害原論』「開講のことば」から)
古賀:この『公害原論』を読んで水俣に関心がわき、高専の教師たちに思い切って相談しました。すると化学、国文学や英文学の教師たちも、それぞれの問題意識を率直に話してくれるようになりました。化学の先生は、自分の専門への問題意識から、じつは水俣に通っていたのです。教師たちも、それまで教壇で見せてきた姿とは違う何かを隠し持っていました。自分がテンプレから脱するとき、世界もまた違った「顔」を見せはじめるのです。
水俣を知ったことにより、それまでオーディオや無線やパソコンが大好きだった私は技術への生き生きした素朴な歓びに翳りを抱き、ひいては自分自身に深い罪責感を感じるようになった。(中略)科学技術は、何かを覆い隠して成立している。その蓋を私は開こうとしていた。(『理性の暴力』第四章より)
古賀:結局、18歳で高専を中退し「学問や技術にまつわる問題を考えるなら、哲学だろう」というイメージだけを抱え、北海道大の哲学科に進みました。
とはいえ、思想の研究も実情はタコツボ化しています。中世哲学の研究者は近代哲学を知らず、近代哲学の研究者は中世哲学に関心がない。哲学と倫理学と美学はそれぞれ研究室が別で、ほとんど交流もない。隣り合っているのに、互いにほとんど触れないまま研究が進むのです。
脱呪縛がそのまま呪縛化するというこの矛盾は、日本語における哲学教育、もしくは哲学研究にそのまま妥当する。(中略)はじめて哲学書に触れたときには世界が開かれていく胸躍るような解放感にとらわれ、そのまま哲学を専攻することを決意するも、ある思想家研究を自分の専門と決めてそれに追従するようになると、いつしかそのテクストの洞窟に閉じ込められる。(『理性の暴力』終章より)
古賀:大学2年のとき、泊原発(北海道)の試運転がきっかけで、原発反対運動にのめり込みました。
この問題に出あったころ、この分野の研究者に話を聞きに行きました。安全性を強調し、運転に反対する人たちのことを「感情的に騒いでいるだけだ」と徹底的にバカにするわけです。「ああ、宇井純が批判した水俣病をめぐる大学の構造と同じだ」と気づきました。原発は正義からにじみ出た悪で真っ黒でした。
それこそ寝食を忘れて20代の時間の大半を運動に投じました。それでもやっぱり運動は負けるんです。盛り上がる時は盛り上がっても、いつしか退却戦となり、原発は動き、参加した人も食べていけないから仕事に就く。酪農家、漁師、医師、弁護士、そのまま活動家になった人もいました。哲学科に進んだもののあまり勉強しなくなっていた僕も大学院に戻りました。
運動は解体していきましたが、かかわった人たちはそれぞれ「この経験を生かして自分が生きていくにはどうしたらいいか」と考えるわけです。僕といえば、「ものを知る」とはそもそもどういうことで、何のために知るのかということを運動の経験から改めて考えるようになりました。技術と倫理の問題をもう一度、哲学によって問い続けようと。