夢破れて31歳で日本を出た男が、中国でカリスマ教師になった:笈川幸司【世界が尊敬する日本人】
COURTESY OF KOJI OIKAWA
<日本語スピーチコンテスト優勝者を200人以上輩出し、30カ国で講演。熱血日本語教師として知られるが、中国での歩みは公私ともにどん底からのスタートだった>
※4月30日/5月7日号(4月23日発売)は「世界が尊敬する日本人100人」特集。お笑い芸人からノーベル賞学者まで、誰もが知るスターから知られざる「その道の達人」まで――。文化と言葉の壁を越えて輝く天才・異才・奇才100人を取り上げる特集を、10年ぶりに組みました。渡辺直美、梅原大吾、伊藤比呂美、川島良彰、若宮正子、イチロー、蒼井そら、石上純也、野沢雅子、藤田嗣治......。いま注目すべき100人を選んでいます。
その声は温和で、むしろ控えめな印象すら受ける。気遣いにあふれていて、電話による取材が彼の所用で中断したときは、何度も「すみませんでした」と謝ってくれた。
タフでなければ生き抜けないであろう中国で、熱血教師として名をとどろかせているとは思えない。だが笈川幸司(49)は、中国に1万8000人近くいる日本語教師の中でも、ユニークで異彩を放つ存在だ。
中国に渡ったのは2001年、31歳の時。遠距離恋愛をしていた中国人の女性と結婚するためだった。しかし、5年半待たされていた彼女は、笈川が北京に着いた翌日に別れを切り出す。笈川は自殺を考えるほど絶望の淵に立たされた(実際、病院で抗鬱剤を処方してもらい服用していたという)。
その女性と出会ったのは、日本で大学を卒業する前、母の勧めで中国に語学留学をしたときだった。1年半の留学から帰国後、笈川は国会議員秘書を経て、27歳で夢だった漫才師を目指す。だが厳しいお笑いの世界では芽が出ず、本人いわく「逃げるようにして」飛行機に乗った、そんな中での失恋だった。
それでも笈川は中国にとどまった。仕事の当てすらなかったが、翻訳の勉強をする時間を確保できそうだという理由で、朝から晩まで働く必要のない日本語教師をやろうと考え、人に紹介してもらってある大学で職を得た。だが実際に彼がやったのは、むしろ早朝から深夜まで全力を注ぎ込む日本語教師だった。
「それまでは楽をすることばかり考えていたが、夢を捨てて中国に行き、そこで『別れてください』と言われてからは、自分の価値観を捨てようと思った」と、笈川は当時を振り返る。「いつ死んでもいい。お金もいらない。もう価値のない人生だから、他人のために全部使おうと考えた」
早朝に学生たちとジョギングをする、自腹で食事会を開いて学生たちを招待する、寮の自分の部屋をサロンのように開放して夜遅くまで語り合う......。その後、中国の名門大学である清華大学や北京大学でも日本語を教えるようになる笈川だが、熱血教師ぶりを示すエピソードには事欠かない。
「ある学生が日本語の学習で悩んでいると、笈川先生が散歩に行きましょうと誘い出して、清華大学から天安門ぐらいまで、2人で3~4時間ずっと話しながら歩いたということもあった」と、笈川の教え子で、現在は東京で通訳の仕事をする35歳の張煒(チャン・ウエイ)は言う。「その子は実際、その後で成績がかなり伸びた。学生の話を聞いて、親身になってアドバイスをくれる先生だった」