国籍売ります──国籍という不条理(1)
家系や性別はもちろん、収入や教育も一切無関係に人は皆市民として結びつく、というのが現代の自由民主主義国の大原則である。成人であるというただ一点で人を包摂する市民という資格を、カネで取引するのはこの制度の原則になじまない。そもそも世界の圧倒的大多数の人々には、国籍を選ぶチャンスはもちろん、大金を払って国籍を買う自由はない。であれば結局これは、平等であるべき市民の資格を、一部の特権的な金持ちに優先的に与えることであり、不公正ではないだろうか。
また、国家のメンバーであるということは家族と似ていて、苦楽をともにし、運命を共有する仲間であることが期待される。また民主的国家の場合、集合的な決定はつまるところ多数決でなされるが、多数決が有効に機能するには多数派の決定に少数派が従わなくてはならない。しかし敗れた少数派が自分の意に添わない決定でも受け入れるのは、多数派も少数派も同じボートに乗っていて、究極的には運命を共にする仲間だという意識があるからである。
また、社会保障や福祉制度で、市場での敗者が背負う苦境を、税金で分かち合うには、これまた助け合いの仲間だという感覚が共有されているからではないか。このことは、例えば人口一四億の中国と一億強の日本が、一つの国になって多数決で物事を決めたとすると、日本人がそういった決定に納得できるかどうかを考えてみると、了解できよう。
国籍をカネで買った人には、一般の国民との間に、このような仲間としての絆は期待できない。カネで国籍を買った人々が、国家の政治的決定に参加すれば、それは票を買ったのに等しい。カネと引き換えに国家のサービスを享受する人にとっては、国家は民間警備保障会社や保険会社のようなものである。そういった人々が増えれば、国家の公共性は腐蝕し、多くの市民が国家という制度にシニカルになるだろう。市場で国籍を買った人は、国家が苦境にあるときに、仲間とともに必要な負担や危険を分担するだろうか。カネで買った国籍なら「品質が悪い」と判れば捨て去り、より安全でサービスのよい国に鞍替えするだろう。でも国とはそういうものでよいのだろうか?