北朝鮮の金正恩 「狂気」の裏に潜む独裁者の帝王学
偉大なる指導者
はるか昔、平壌は、現代の「朝鮮」という言葉のルーツとなっている強大な国家、高句麗の首都だった。歴史をさかのぼると、「偉大なる指導者」という概念は、全能の神、親や天命をもつ王を敬う儒教の教えといったような、時と共に受け継がれてきたいくつかの思想が混ざり合って形成された。韓国国会立法調査処のLee Seung-yeol上級研究員はそう説明する。
北朝鮮指導部の主要研究者であるLee氏は、同国の継承理論に基づくなら、正恩氏は父親の存命中にもっと早く後継者に選ばれていてもおかしくなかったと指摘する。父親の正日氏は最高指導者となる20年前に後継者に選ばれ、側近や支配体制を築く時間があった。
正恩氏の場合は、後継者に選ばれてからわずか3年後に政権の座に就いた。
1984年生まれで継承順位が第3位だった正恩氏は、気難しく負けん気の強い子どもだったと、金一家の専属料理人を務め、子ども時代の同氏について知る数少ない人物の1人である藤本健二氏は言う。現在、平壌で日本料理店を営む藤本氏は、2010年に出版した回顧録のなかで、叔母の高英淑(コ・ヨンスク)氏に「小さな将軍」と呼ばれて正恩氏がかみついたことがあったと明かしている。「同志の将軍」と呼ばれたかったのだという。
正恩氏が間もなく後を継ぐことを知った父親の正日氏は、息子を守るための措置をいくつか講じた、と研究者らは指摘する。Lee氏によると、そのなかには、エリート層にライバル関係が生まれるよう権力基盤を変え、正恩氏が2つのグループを争わせることができるようにしたことなどが含まれるという。
貧者の兵器
正恩氏がまず最初に変えたのは軍事戦略だった。父親は、支援を得るための交渉の切り札として核軍縮の約束を使ったが、正恩氏も2012年2月、それを踏襲し、米国からの食糧支援と引き換えに自国の核プログラムを凍結すると約束した。
しかしそれから数週間後、同氏は方針転換し、北朝鮮が長距離ミサイル実験を実施することを明らかにした。「交渉は金正日氏の遺産として継続されていた」。2012年2月の合意に寄与した前年の6カ国協議で韓国代表を務めた魏聖洛氏はこう語る。
「これ以来、彼の戦略的な考えが出来上がっていった」
正恩氏は、イラクのフセイン元大統領やリビアの元最高指導者カダフィ大佐が弱体化して破滅したのは、核兵器を保有していなかったせいだと考えている。北朝鮮メディアはそう伝えている。
「強力な核抑止力は、外国からの攻撃を阻止するのに最大の力を発揮する宝刀であることを、歴史は証明している」と、国営の朝鮮中央通信社(KCNA)は2016年1月、論説でこう述べている。