2049年によみがえった『ブレードランナー』のディストピア
荒廃したロサンゼルスの俯瞰ショットには息をのむ Blade Runner 2049
<伝説のSF映画の続編『ブレードランナー2049』が遂に登場。驚異の映像で魅了する新作はオリジナルに優る?>
リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』(82年)は、ジャンルを変革したSF映画の古典だ。それから35年もの歳月を経て登場した続編『ブレードランナー2049』について語るには、オリジナルをめぐる感想の移り変わりについて語らないわけにいかない。
『ブレードランナー』は傑作か? それともポップカルチャーに深い影響を与えたにすぎない映画なのに、セットなどの美術的側面があまりに画期的で、その後の作品で繰り返し模倣されてきたために「名作」と見なされているのか?
いっぱしの映画通を気取っていた10代の頃、すごいのは映像と音楽(街角の巨大なスクリーンに映るゲイシャの顔! ヴァンゲリスの物憂げなサントラ!)だけだと筆者は思った。フィルムノワールの現代的再現を目指したこのサスペンス映画はストーリーが散漫だ、と。
路地裏の追跡シーンや終盤の雨の屋上での場面は印象的だったが、それ以外は退屈、または意味不明だという感情に襲われた。ただし、92年に公開されたディレクターズカット版では、こうした問題の一部は解決されている(ほかにも複数のバージョンがあるが、筆者は全部見るほど熱心なファンではない)。
だが後になって、『ブレードランナー』は『マトリックス』(99年)と同じ、どちらもカルト的傑作の評価にふさわしいと考えるようになった。そして2つの作品は、当時の社会が抱いていた恐怖をぴったりのタイミングで表現した映画でもある。
両作は見る者の心に潜む実存的な不確かさ、テクノロジーへの不安に訴え掛けた。何が現実で、何が作り物か。誰が真の権力者か。私たちが生きている人生とは別の人生が存在するのではないか――。
この2作が、喧伝されるほど深遠な哲学を持つ作品かどうかは問題ではない。重要なのは、それまで誰も目にしたことがない驚きに満ちた映画だったこと、未来世界を大胆かつ鮮やかに描き出したことだ。
そうした基準に照らせば『ブレードランナー2049』は文句なしの名作とは言えない。とはいえ、それなりに素晴らしい。
『ボーダーライン』『メッセージ』などで知られる監督のドゥニ・ビルヌーブは、謎をすっきりと解決したがらないタイプ。オリジナルから30年後を舞台とする『2049』では観客を意図的に惑わすストーリーが展開されるが、その印象はスリルと陰鬱な退屈さの間を揺れ動く。
その一方で伝説的な撮影監督ロジャー・ディーキンスの手になるカメラワークは、軽やかにして堂々たるもの。人間と人造人間のレプリカントが住む荒廃したロサンゼルスの俯瞰ショットには息をのむ。
帰ってきたデッカード
美術監督デニス・ガスナーは前作のハイパー資本主義が支配するディストピアを、核や気候変動による大災害で破壊されたらしい暗黒の世界へと増幅した。2049年のロサンゼルスは濃い霧に覆われ、灰の雨が降り注ぐ廃墟の町。余裕のある人々は既に地球外の植民地へ移住しており、残された者は乏しい資源を争っている。