南スーダンからの80万人
そしてジャン=リュックもまた、俺が音楽をやると知っており、ユーチューブで探せるかと熱心に聞いてきた。もちろん教えたし、どうやらその夜には全部見ていたようだ。
それはともかく、彼は今回2年間のミッションでウガンダに来ており、これまではチャドに3年、東京に4年半、その他活動責任者としてアンゴラ、エチオピア、ケニア、モザンビークに派遣された実績があった。学生の頃から水・衛生に関する勉強を重ねており、母国の公衆衛生局で技師として勤務していた。そんな中、初めての国外旅行でアフリカを訪れ、ブルキナファソでNGOの活動を目にした際、「これこそやりたいことだ!」と確信したのだそうだ。
すでにそういうキャリアがあったため、MSFを選んだ時にもトレーニング期間は短く済んだと言うから、彼はNGOにおける大変優秀な特待生のようなものではないかと俺は思った。人を助けるべくして研鑽を積み、粛々とその知見を生かし続けているのだ。
ということで、ジャン=リュックは基本的には「WATSAN(water and sanitation 水と衛生)」を中心とする環境整備にいそしむロジスティシャンとして活動を始め、そこにくわしいリーダーとして活動責任者を務めるようになったわけだった。確かにのちのち、俺もアフリカのキャンプで水がどれほど大切かを知ることになる。
さてそのジャン=リュックが力を尽くすウガンダの困難とは何か。
それが先ほども書いた南スーダンからの難民問題なのだった。
「昨年2016年の7月8日からそれは始まった」
とジャン=リュックは資料をテーブルに広げて言った。彼の指さす場所に棒グラフがあった。
「日々、難民が到着し始め、最初の7月に5万人以上が移動してきたことになる」
グラフではそこから月ごとに増減はあるもののほとんど変わることなく、今でも一日に平均2000人が流れ込んでいた。世界史の教科書に書かれるであろう、とんでもない民族移動である。
それが今の今、起こっているのだった。
「我々MSFは7月からすぐさま水の供給にも入った。国際機関や他のNGOは食糧や住宅と、互いに緊急に分担を決めて動いたんだ。7月25日からはその直前に伝染病が始まるおそれも見られたため、我々はコレラ対策も緊急始動した」
重ねて書くけれども、これはたった1年前、いやほぼ半年前に起きたことであり、現在も終わっていない事態である。
原因は2013年から再燃した南スーダン政府軍と反政府軍の紛争である。衝突は続き、何万人もの人が亡くなっているし、おそらく今日もまたどこかで家を焼き払われ、レイプが起こり、自軍に入れるために誘拐される子供がいる。
「8月、5万人。9月、8万5千人」
もう一度確認するようにジャン=リュックは言った。ジュバで激しい銃撃戦が起きた。日本では自衛隊が初めて武器携行をしての出動をするということで、ジュバで起きたことを「武器を持った衝突」と呼んだ。「戦闘」ではないということだったが、俺には意味がよくわからない。