部下を潰しながら出世する「クラッシャー上司」の実態
とはいっても、それらの程度には濃淡があり、当然ながら部下の潰し方もそれぞれ異なる。そして、その事例として本書ではいくつかのタイプのクラッシャーを挙げている。まず紹介される「クラッシャーA」は、まったく悪意はないものの、共感性(部下がどれだけ辛い思いをしているかを認識する能力)の低い上司。基本的に悪人ではないものの、配慮に欠けるということだ。
次に登場するのは、他者への共感性がないに等しい「クラッシャーB」。仕事に完璧主義という以上のこだわりがあり、それを善だと信じて疑わないタイプ。よって自分と同じ能力を部下にも強要したりする。しかも感情を一切出すことなく、長時間にわたってねちねちと雪隠詰めにするため、部下をメンタル不全に追いやってしまうというのである。このタイプに決定的に欠けているのは、部下のがんばりや成果を認め、評価して「褒める」力だと著者は分析する。
なお、自分の行いは善であると確信しつつも共感性が欠如したクラッシャーAおよびクラッシャーBとは異なるのが「クラッシャーC」。このタイプは善という確信こそ持っているものの、その度合いは低く、他者への共感性が決定的に足りないというのだ。だから、悪意が感じられるのだという。要は"薄っぺらな悪いやつ"だが、仕事の要領はよく、立ち回りがうまい。だからスルスルと出世し、手にした権力でまた薄っぺらな悪事を働くというわけである。
第二章では彼らの生い立ちを振り返りながら、その精神構造がどうやってつくられていったのかが検証されている。もちろん、クラッシャー上司にはこの3パターンしかないというわけでもないだろう。しかし、その傾向をつかむためにはとても役に立つのではないかと感じる。
また、さらに注目すべきは、クラッシャーを生む企業社会の側に、「滅私奉公することが善である」という旧来的な価値観が残っているという視点だ。会社のため、仕事のため、といったお題目のもとに過重労働を続けた結果、バランスが崩れて家庭が崩壊してしまうというのだ。
その好例が、モーレツ社員として、部下に共感することなく、パワハラをしながら強引に働いてきた結果、妻と子どもから見放されて「うつ」になってしまった人(「クラッシャーD」として紹介されている)のケースだ。彼の事例を知ったとき、著者は山田太一脚本の名作ドラマ『岸辺のアルバム』を連想したという。
クラッシャーDの事例で私が『岸辺のアルバム』を連想したのは、杉浦直樹演ずる田島謙作の鈍感さが相当なものだったからだ。
会社のため、仕事のため、都内に購入した一軒家のローン返済と子供の教育費のため、という「お題目」で、家族一人ひとりの中で起きている危機にまったく気づかない。妻の不倫についても、息子の繁から言われて晴天の霹靂といった状態だ。
そして結局、その鈍感さが謙作からすべてを奪う。天罰のように、それまでの生き方が否定されていく。(143ページより)
『岸辺のアルバム』はいまから40年も前のドラマだが、会社のため、仕事のために家庭を顧みない夫はいまでも多いと著者は指摘する。物理的に崩壊していなくても、世間に見せている平和な家庭像は偽りで、子どもが不登校や非行、妻がうつ病やアルコール依存症などになっていることも多いということだ。
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