「音楽不況」の今、アーティストがむしろ生き残れる理由
夏の野外フェスは、たいていが午前や昼頃から始まり、夜遅くまで続く。大きなものでは1日に数十組のアーティストが出演する。そのあいだ、オーディエンスは自分が観たライブをSNSで発信し、同じ場にいる人と感想を共有する。
生放送の音楽番組にもそういう特徴がある。ただテレビを観ているだけの人も多いが、スマホを片手にテレビを観る習慣が根付いた人は、SNSを通じた参加型の視聴行動を行うことが多い。そういった人が、同じアーティストのファンをフォローし、互いにつながっていることも珍しくない。ツイッターのタイムラインには目当てのアーティストの出演時の感想が並び、家で一人テレビを観ながらにしてライブ感を疑似体験できる。そう考えると、生放送の音楽番組は、いわばテレビの中の音楽フェスになぞらえることができる。(109ページより)
そんなムーブメントの大前提としてあるのは、「体験はコピーできない」ということ。同じことは、「みんなで踊る」ということにもいえるという。なるほど、三代目J Soul Brothersの「R.Y.U.S.E.I.」も星野源の「恋」も、あるいはピコ太郎の「PPAP」にしても、ヒットの要因としてのダンス意義はたしかに大きい。
そのことには納得できる。しかし、だとすれば、これからは「共有」だけが求められ、かつてのように国民全員が知っているようなヒット曲が生まれることはないのだろうか? この点についても、洋楽と邦楽の構造やあり方を交えながら的確な論が展開されるが、なかでも特に共感できたのは、いきものがかりの水野良樹の話だ。
彼は、上の世代とは違い、まったく洋楽の影響を受けていないと公言する。なにしろ「自分が思春期に最も聞いていたのは玉置浩二」と語っているというのだから。世代を考えれば当然のことといえるかもしれないが、つまりは私たちの世代にあったような「洋楽コンプレックス」がまったくないのである。
しかも大人たちに「どこか懐かしい」と感じさせる音楽性を持つ彼は、昭和の歌謡曲の時代を支えていた先達からの影響を隠さない。具体的にいえば、中村八大や浜口庫之助、宮川泰や筒美京平などの作曲家、阿久悠や阿木耀子や松本隆などの作詞家の仕事にあたったというのである。そしてその結果、彼の世界観は世代を超えて多くの人々の支持を得た。
水野は、自分の作った曲が「届かない人にまで届いた」という実感を持っている、と言う。その表現は「ヒット」の本質の一つを射抜いている。
「(中略)たとえば、僕があるとき、お弁当屋さんで惣菜を選んでたら、たまたま店内放送で『ありがとう』が流れていて。それを聴いた若い夫婦が隣で会話していたんです。奥さんが『あ、これ「ゲゲゲの女房」の曲だわ。私、この曲、好きなの』って言って、旦那さんが鼻歌を歌ったりして。でも、もちろん僕には気付いていない。作った人が隣にいることなんて全然気付いてなくて。そのときに『あ、この曲、ヒットしたな』って思ったんですよ。そういう風に、音楽がいろんな人の普通の日常生活に溶け込んで、僕らが普段行かない場所、自分だけでは届かない人にまで届いたときに『ヒット』の実感があります。(後略)」(230ページより)
この話には、ヒットが意味するものの本質が示されているのではないだろうか? そして他方には、フェスがあり、ダンスがあり、大型音楽番組があり、SNSがある。つまり現代のヒットとは、それらすべてを含めた上で成り立つものなのではないか? 多くの共感とともに、そんなことを強く感じた。
【参考記事】ジャニーズと戦後日本のメディア・家族(前編)
[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。現在は他に、「ライフハッカー[日本版]」「Suzie」「WANI BOOKOUT」などで連載を持つほか、多方面で活躍中。2月26日に新刊『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)を上梓。