リゾート地の難民キャンプに至るまで──ギリシャ、レスボス島
行ってみるしかない
十時半、いずれにしてもいったんMSFのオフィスに向かってみることになった。
すぐにタクシーを呼んでもらい、十数分後俺たちはニコラスのいたホテルをあとにした。
ほど近い、城のふもとの小さな村でいったん車を止め、谷口さんは銀行で金をおろした。まさかタクシーで往復二時間半以上を移動するとは思っていなかったからだ。郵便局みたいな感じの銀行のそばでうろうろしていると、土地を離れたことのなさそうなおじいさんたちが好奇心を抑えながらこちらを見るのがわかった。ギリシャの田舎そのものという場所に、いきなり異国から難民が数万人やって来た時、彼らはどう反応したのだろうかと思った。
ただ、おじいさんたちは露骨に俺を見るわけではなく、そこにある上品さがあるのが感じられた。考えてみれば、彼らは大昔から海の向こうから来る者と交流しているはずだった。歴史が彼らを鍛えているのかもしれなかった。
村からは、岩と褐色の土で出来た岡の横を通り、オリーブ畑を通り、小山を越えてひたすら南へ移動した。途中の町の角に青年がいるので道を聞くのかと思いきや、何か小さな袋をドライバーのおじさんは受け取った。
「速達だよ」
とドライバーは言った。せっかく港町に行くので運搬を頼まれているのだった。
タクシーはそこからカッローニという大きめの町を目指した。山を行くと松林で道路が松かさだらけだった。オリーブが点々と生える向こうに白馬がいた。奇妙な夢のようだった。
ようやくカッローニに着くと、今度はドライバーが交代した。やはり道角に息子さんが待っていて、そこからは彼の出番だった。
英語で自分たちは『国境なき医師団』でここへ来たと息子さんに言うと、すぐに意味がわかり、何千人の難民がここに来たとか、今はきついが来年はいいだろうとか、ホテルの女性と同じようなことを言った。
そこからさらに一時間半ほど。
俺たちはようやくミティリーニという港町に着き、MSFの陣取る二階建てのかわいらしいオレンジ色の瓦屋根の家を見つけ出した。
門から入っていくと、家の脇の薄暗いところで女性が3人ミーティングしていた。正面扉の前には椅子があり、おばあさんが腰をかけていた。来客を迎えるのだろうか。
中に入ると、そこにもたくさん人がいて部屋の中で事務をしていたり、二階から下へと移動したりしていた。
俺たちを迎えたのは茶色いヒゲを生やしたイギリス人でプロジェクト・コーディネーターのアダム・ラッフェルで、彼が使っている部屋に招き入れられてそのまま「レスボス島の状況」についての概説を聞いた。
彼自身、去年から活動に参加したそうだったが、ピーク時にはメディアも難民も一日に千人から3千人訪れていたのだそうだった。すさまじい数の人を、アダムたちは適切な場所へ誘導しなければならなかった。
当時、MSFとグリーンピースは地中海で共同して事にあたることにし、レスボスの北部に3つの難民上陸拠点を作った。そのひとつ、モリヴォスが俺の泊まっていた地点であった。
海の上でさまよう難民のボートを大型ボートで見つけて乗船者を救助すると、MSFは彼らを拠点へと上陸させた。そのあと、難民たちは行政の指示で東側の海岸沿いに南へと徒歩で移動したのだそうだ。大変な旅は終わることがなかった。MSFは彼らが歩かなくてもすむようバスの運行を行い、やがて国連もバスを出したらしい。
さらにアダムたちは、マンタマドスなどの一時滞在センターで食事や救援物資や医療を提供した。中でも最大5000人が島に到着しながらも、もともとの滞在想定人数が700人だったというホットスポットのモリア(漂着した移民・難民など"保護希望者"の審査・登録を行う目的で2015年10月からギリシャの主要な島に設置された難民管理センター)では当然フル回転の援助が続いたという。
モリアで難民申請が通った者は管理センターの保護下に入るはずだったのだが、例の『EUートルコ協定』によって彼らの立場が不安定になってしまい、追い返される事態が発生した。