「親を捨てるしかない」時代に、子は、親は、どうすべきか
超長寿社会とは、高齢者になっても親が生存している可能性の高い社会であり、それは超高齢化社会への道だ。高齢者の子どもが後期高齢者の親の介護をすることは、過酷な状況を強いられるであろう老老介護の一種だ。その先には、自分が死ぬときに親が健在という事態も考えられる。また、そこには「孤独死」や「無縁死」の増加という現実も加わるだろう。
そんななかで著者が問題視するのは、「子どもには迷惑をかけたくない」が高齢者の間でキーワードになっているという点だ。自分の死後の後始末は本人にはできないので、子どもにとって迷惑になるかもしれない。できるだけその負担を減らしたいと考えるのは当然で、だから「終活」という活動が注目されたりもする。だが、そこにさまざまなハードルがあるのも事実。葬儀の方法、相続など、あらゆる問題点が露呈することになるのだ。
終活をはじめたときに、すでに高齢者になっていたとしても、まだ当人は元気であり、そういう状態だからこそ、自分の老い先を考えようとする。
しかし、その時点では、自分が老いるということが具体的に何を意味するのか、はっきりと理解できていない。老いたときの自分の状態や気持ちが、それより前の時点では具体的に想像できないのだ。(106ページより)
たしかに、それは当然のことかもしれない。終活をはじめた時点では「いさぎよく死にたい」と考え、無駄に命を長引かせる終末期医療など拒否するという立場に立っていたとしても、そうした事態が現実味を帯びてくると、その決意は往々にしてぐらつく。
人間の決意は、状況によって揺らぎ、変化していく。また、そこには「ボケ」という事態も絡みついてくる。つまり「子どもには迷惑をかけたくない」という思いからはじめたはずの終活も、やり遂げるのはかなり困難だということだ。
では、親が子どもに捨てられるのだとすれば、そして終活もままならないのだとすれば、親はどうしたらいいのか? この問いに対して、著者は第5章でこう断言している。
究極の就活は、「とっとと死ぬ」ことに尽きる。死んでしまえば、「子どもには迷惑をかけたくない」という高齢者の思いも満たされるし、事実、子どもも助かる。(144ページより)
実際に、自ら死を望む人もいるだろう。第2章には「社会の活力の維持には適切な形での新陳代謝が必要であり、高齢者にしても、いかなる状態になっても長生きしたいとは考えていない。よって自分が寝たきりになったら、介護を拒否して安楽になりたい」という83歳男性の新聞への投書が紹介されている。
だが現実はといえば、家族こそが「とっとと死ぬ」ことを阻んでいる元凶でもあるのだという。
介護する側に収入がなかったり、ごく低額の収入しかなく、介護される高齢者の年金に頼っていたら、ますます死なせてはくれなくなる。本人のためではなく、介護する側の都合で、死につつある高齢者が生き続けることを強いられるのだ。(154ページより)