沖縄の護国神社(1)
だからだろうか、現代の感覚では非合理と思えるものへの抵抗感が少なく、「サーダカーな人(霊的な位相の高い人)」や予知夢の存在が当たり前に信じられ、さまざまな新興宗教が支部を構えて栄える。アメリカ占領時代の名残でキリスト教も強く、町に小規模な教会をよく見かける。これら新興の外来信仰が、沖縄の厳格な祖先祭祀から零れ落ちた人を掬い上げる役割を果たしてもいる。
多様で層の厚い宗教文化の地では、内地で圧倒的な存在の仏教や神社神道すらひとつの外来信仰にすぎない。
沖縄に仏教が来たのは十三世紀半ば。補陀落渡海(ふだらくとかい)で流れ着いた禅鑑という僧が伝えたと言われる。補陀落渡海とは南の浄土を目指して小さな箱舟で僧侶を海に流した習慣で、那智勝浦が有名である。筆者も昔、井上靖の小説『補陀落渡海紀』に描かれた僧の懊悩を読んで暗い気持ちになった覚えがあるが、太平洋を渡って沖縄まで着いた舟があったとは史実は小説より奇なり。ちなみに勝浦の補陀落山寺の場合、僧侶を入れた箱の四方に鳥居が四つ立っていたとされる。沖縄の仏教が鳥居を立てて到来したかもしれないとは密かに痛快だ(1)。
やがて十六世紀前半にやはり補陀落渡海で来た日秀という僧が、沖縄で真言宗と熊野信仰とを広めた。その後、次第に寺院の数も増えたが、仏教は国家鎮護を祈る場と捉えられ、広く一般の信仰の対象とはならなかった。現在でも沖縄の寺では、宗派の区別はなく、境内に墓がなく、よって檀家というものもない。観光寺院の類もなくて、道教の寺院のほうが観光客を集める。
一方、神道の伝来は日秀より早い十五世紀と言われるが、確かな年代や経緯は分かっていない。十五、六世紀頃は琉球王朝の黄金期にあたり、各国との交易や交流が盛んだった。その際、当時の日本で流行していた熊野信仰が商人や僧侶らによって持ち込まれたらしい。この新しい外来の神は琉球の神々より強い力を持つと思われ、王家や役人らに信仰され、首里や那覇といった政治経済の中心地に社が建てられた。それが沖縄における神社の始まりと考えられている。
そんなわけで、今も沖縄では、神主は「ユタの男性版」だと誤解されることも多い。「神社の人なら見えるんでしょ?」と期待され、エクソシストか霊媒師のような案件が持ち込まれることもある(2)。実に多様なものが混然と共存した信仰文化なのである。
沖縄戦と護国神社
「新しい」宗教である神道のうちでも、護国神社そのものが神社界の新興宗教である。
護国神社については先行研究が少なく、特に沖縄の護国神社や神道を扱った活字資料は、長く事務局長を務めた義父・加治順正と現宮司が書いたものが基本になる。以下の神社史の多くは、加治順正がほぼ一人で仕上げた社史『沖縄県護国神社の歩み』(二〇〇〇年、以下『歩み』と略称)に基づく。
一般に護国神社の起源は幕末維新期の官軍側の死者を祀った招魂社にあり、やがて近代日本の戦争で国に殉じた郷土出身者を合祀していった。戊辰戦争に縁の深い京都や鹿児島では創建が早く(慶応四年)、たいていは一県一社、北海道や岐阜県には三社ある。神奈川県は一社もなく、東京の招魂社が靖國神社となったため東京都の護国神社というものも存在しない。