難民に苦痛を強いるレバノンの本音
イケアのシェルターは恒久的な建物に見えたので嫌われた、と彼女は言う。シリア人が定住してしまうことを、地元の人たちは恐れているのだ。
ハルバでの試用は中断したが、UNHCRはくじけず、別の場所で試した。「次にレバノン山脈地域で試みたが、また反対された。結局、レバノンの社会問題省と協議の末、計画は中止と決まった」とスレイマンは言う。7つのシェルターは梱包され、スウェーデンに送り返された。
難民が定住することをレバノン人が心配するのには歴史的な理由がある。1948年のイスラエル建国の際、土地を追い出されたり、戦闘から逃れたりした10万人近いパレスチナ人がレバノンに入り、各地に難民キャンプを建てた。
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それからの数十年間、パレスチナの武装勢力の間で緊張が高まり、その多くはレバノンを対イスラエル戦の基地としたので、レバノンのキリスト教徒のグループはパレスチナ人の存在に反感を持つようになった。
パレスチナ人勢力は75年から90年まで続いたレバノン内戦でも主役の1つだった。現在では、国内の難民キャンプに50万人以上のパレスチナ人が住む。住居はコンクリートや石でできていて、周辺の家々と変わりなく、いつまでも住めそうに見える。
「これらのキャンプも最初はテントだったが、やがて家になった。今でも『キャンプ』と呼んではいるが、実態はもうキャンプとはいえない」と社会問題省のカセンは言う。07年には北部の都市トリポリに近いナハル・アル・バレドの難民キャンプを拠点とするイスラム系武装集団ファタハ・イスラムとレバノン軍の大規模な衝突もあった。
戦闘でキャンプはほとんど破壊された。「レバノンの人々はこの件を忘れていない。長期的に住むことができるシェルターを受け入れられないのはそれが理由だ」とカセンは言う。
「48年にパレスチナ難民を受け入れたとき、レバノンは建国から5年の若い国だった。レバノン内戦はパレスチナ人の流入という悲劇の遺産でもあった」とブラウン大学の比較文学・中東研究の准教授で、レバノン政治についてのブログを主宰するエリアス・ムハナは指摘する。
「レバノンは世界で最も人口密度の高い国の1つであり、これ以上の人口増加に対処できないという心配もある。同時に、国に同化しないコミュニティーの存在に対する感情的な反発もある」と彼は言う。
反発の裏には政治的な事情もある。レバノン政治は多くの宗教・宗派の微妙なバランスで成り立っている。スンニ派であるシリア人が100万人以上も加われば宗派間の勢力分布は大きく変わり、他の集団は現在より不利な立場になりかねない。
宗派間の力関係で政治が動くこの国では、人道危機が政治の危機に直結する。
[2016年4月 5日号掲載]