毛沢東は日本軍と共謀していた――中共スパイ相関図
葉剣英(ようけんえい)(のちの中共中央副主席)は、女性作家・関露を李士群の秘書として特務機関76号に潜り込ませており、饒漱石(じょうそうせき)(当時は中共中央軍事委員会華中軍分会常務委員など)は潘漢年や揚帆(ようはん)(当時は中共中央華中局・敵区工作部部長)に中共スパイとして日本軍との接触を命じている。すべて毛沢東の密令であり、重慶の国民党軍に対する中共軍の戦局を有利に導くためだった。日本軍との戦いは蒋介石率いる国民党軍に任せ、中共軍はその間に強大化していくという戦略である。
毛沢東は希代の策略家だ。もくろみ通りに日本敗戦後から始まった国共内戦において成功し、蒋介石の国民党軍を台湾敗走へと追い込んでいる。その結果毛沢東は、1949年10月1日に現在の中国、すなわち中華人民共和国を建国したのである。
口封じのためにすべて投獄
中華人民共和国が誕生してまもなく、毛沢東は自らの「個人的な」意思決定により、饒漱石をはじめ、潘漢年や揚帆あるいは袁殊など、毛沢東の密令を受けてスパイ活動をした者1000人ほどを、一斉に逮捕し投獄する。実働した者たちは毛沢東の「日本軍との共謀」という策略をあまりに知り過ぎていたからだ。
たとえば潘漢年は売国奴としてその口を封じられたまま、1977年に獄死している。1976年の毛沢東の死によって文化大革命は終わったものの、潘漢年の投獄は毛沢東じきじきの指示だったため、なかなか名誉回復されなかった。名誉が回復されたのは死後5年経った1982年のことである。
すると、潘漢年を知る多くの友人たちが、潘漢年の無念を晴らすために、彼にまつわる情報を集め始めた。そして、すべては「毛沢東の指示によって、中国共産党のために行動したのである」という事実を書き始めた。これらは、たとえば『潘漢年的情報生涯(潘漢年、情報の生涯)』(尹騏(いんき)著、人民出版社、1996。情報は中国語でスパイ情報の意味)や『潘漢年傳』(尹騏著、中国人民公安大学出版社、1997年)といった本として中国大陸で出版されている。
注目すべきは、すべて「潘漢年も袁殊も、日本側から日本軍の情報を引き出し、中共軍が日本軍と戦うために有利となるようにスパイ活動を行ない、中共軍を勝利に導いた(中共軍が日本軍を敗退に追いやった)」という筋書きで組み立ててあることだ。