軍用ドローンで世界はどうなる 〈無人化〉時代の倫理に向けて
「戦争」の変容
本書「ドローンの哲学――遠隔テクノロジーと〈無人化〉する戦争」は、遠隔技術がもともと博愛的ないし人道的とも言える動機を伴っていたことの確認から論が始まっている。地底の炭鉱、大火事や災害の現場、放射能で汚染された地域や破壊された原子力発電所の建屋、さらには深海、宇宙空間など、人間が生身の体では入ってゆくことのできない「過酷な環境」に介入するためにこそ、遠隔テクノロジーは活用されてきた。しかし、「戦争」という「過酷な環境」にこの遠隔テクノロジーが導入されるとき、いったい何が生じるのか。
歴史を振り返ると、軍用ドローンの原型は第二次世界大戦中のアメリカで生まれた。その後、ベトナム戦争および中東戦争における束の間の利用を経て、ほとんど忘れさられていたが、2000年代初頭、「コソボとアフガニスタン」のあいだに、「新たなジャンルの戦争」において脚光を浴びるようになる。冷戦終結とともに「核」の時代が終わり、湾岸戦争、イラク戦争、コソボ紛争を経て、戦争が「ヴァーチャル化」してゆく過程についてはこれまでも多くの考察がなされてきた。しかし、2000年代のRMA(軍事における革命)、すなわち情報通信技術を統合した「ネットワーク中心の戦争」において、ドローンの登場がさらなる変動を引き起こしている。
こうして生まれた軍用ドローンに「プレデター」、つまり「捕食者」という名前が付けられたことはなんとも意味深長だ。軍用ドローンによって、「戦争」は「狩り」に―つまり「人間狩り=マンハント」に―変貌するからだ。この変貌の不気味さは次のような対比からも理解されるだろう。2000年代初頭にアメリカで、実際の飼育農場に放たれた動物をヴァーチャルな遠隔操作で撃つというインターネット上のオンラインゲーム「ライヴ・ショット」が生まれたが、これに対し動物愛護団体からなんと全米ライフル協会にいたるまで猛反対の声があがった。しかし、まさに同じころ、「捕食者」ドローンによる「国際的なマンハント」計画が、さしたる抵抗もなく動き出していったのである。
しかしドローンは、これまでの武器と―とりわけ混同されやすいロケットなどの「飛び道具」とすらも―根本的に異なる特徴を備えている。ドローンは、「牙」であると同時に「眼」でもあるからだ。フーコーが注目した「パノプティコン」は、ギリシア語ではまさしく「すべてを見る」という意味であったが、「眼」はもはや刑務所の中央にではなく、空のあちこちに浮遊することになる。
ここには「監視社会」をめぐる言説と交差する分析が見られるが、著者のグレゴワール・シャマユーの目論見は、こうしたドローンによるハイパー監視社会の到来を予言することにはない。むしろ、ドローンの推進派たちの言説を仔細に読み込み、現在の軍用ドローンをめぐるイノベーションにおいて、どのような「原理」がすでに実際に提示されているかを明らかにすることが試みられている。三交代制のオペレーターによる恒常監視、ハエの眼のように複眼的な視野をもった総覧的監視、ただ見るだけではなく記録化・アーカイブ化すること、それをいつでも有効に引き出し関連づけるためのインデックス化、携帯電話やGPS等のほかの通信機器からのデータの融合、これらを組みあわせた「生活パターン」の分析等々だ。