子どもをもつと収入が70%も激減 世界が反面教師にしている日本の「子育て罰」
「子育て罰」を課す日本の厳しい現状
日本では、このペナルティーの意味をもっと大きく捉えた「子育て罰」という言葉まで生まれている。内閣府の子どもの貧困対策に関する有志者会議のメンバーでもある末冨芳日本大学教授は著書『子育て罰 「親子に冷たい日本」を変えるには』(光文社新書)の中で、「子育て罰」を日本が「子どもと子どもをもつ世帯の冷たく厳しい国」である現状を捉えるための概念として紹介している。
「日本の政策は、児童手当などの『現金給付』、教育無償化などの『現物給付』ともに不十分で、子どもと子育てする親の生活を、所得階層にかかわらず苦しめています」と指摘し、政策だけでなく社会や企業も「子育て罰」の拡大に貢献してきたという。
企業は雇用や賃金、昇進などにおいて女性を差別してきたことで母親の就労は不安定化。背景にあるもの、つまり「子育て罰」の正体は、親、特に母親に育児やケアの責任を押し付け、父親の育児参加を許さず、教育費の責任も親だけに負わせてきた、日本社会のありようそのものとしている。
その上で政治の課題として、①場当たり主義的な政治、②少なすぎる子ども・家族への投資、③子どもを差別・分断する制度の3点があると指摘している。
日本の子育てや教育に対する公的支援が主要先進国の中で少ないという指摘は、少子化対策を論じる際に散々言われてきたことである。その根本的な要因は、そもそも子育ても教育も(そして介護も)、本来的には家族がするものである、という自民党を中心とした考え方だ。その裏側には男性が主たる稼ぎ手であり、女性が家事育児をするものという性別役割分業意識が剝がれない澱のようにこびりついている。
「子育ては家族で」思想が巣食っている
その家族主義が顕著に表れているのが、児童手当の所得制限撤廃に関する議論だろう。児童手当はこれまでの政権や経済状況によって二転三転、規模の拡大や縮小が繰り返され、子育て世代は翻弄されてきた。そもそも子どもが生まれた年によって、支援が異なるのはおかしくないだろうか。
原則として国民に「自助」を求める自民党の政策が大きく変わったのは、2009年民主党政権が誕生してからだ。それまでの児童手当に代わり、所得制限のない「子ども手当」が設けられた。結果的に民主党政権も財政難から規模を縮小したが、政策の根底には「社会全体で子どもの育ちを支える」という考えがあった。
だが、これが自民党からは徹底的に攻撃された。テレビなどで何度も流されている丸川珠代参院議員の「この愚か者」「馬鹿ども」という発言がそれを象徴している。根底には、「子育ては一義的には親、家庭が責任をもつもの」という家族主義がある。
自民党の綱領は、再配分で国民の自立心を損なう社会主義的な政策はとらないと明言。民主党政権の子育て政策を、安倍元首相が「(民主党の子育て政策は)子育てを家族から奪い取り、国家や社会が行う子育ての国家化、社会化です。これは実際ポル・ポトやスターリンが行おうとしていたことです」と月刊誌『WiLL』(2010年7月号)のインタビューに答えている。