仲間や家族と一緒よりも「ソロキャンプ」が最高に楽しくてクセになる本当の理由
以前こんな実験をやってみた。
これまでまったくキャンプをやったことのない知人に、身ひとつだけ用意してくれれば、あとはこっちでキャンプ場に連れていくし、道具も用意する。何から何まで手取り足取りレクチャーする、っていうものだ。結果その人に「キャンプどうだった?」って聞くと返ってきた言葉は、「多分楽しいんだろうけど......。山に連れてこられてよくわからんまま終わった......」。
「攻略本通り」のキャンプは退屈で野暮
その知人には本当に申し訳なかったけど、改めて自分も、「キャンプの何が楽しいんだっけ」って再確認するいい機会だった。自分で道具を選んで、目的地を決めて、自力で山での一夜を過ごす。そんな"能動的なアクティビティ"が楽しいんだと。だから、俺と同じことをしたりだとか、前の人の足跡をなぞるようなキャンプはしないでほしい。
攻略本通りにゲームをプレイすることほど、退屈で野暮なことはない。
混じり気のない世界に囲まれて一晩を過ごす
僕たちは合理性のあるものが大好きで、良質なものを日々探求している。
でも人間が作るもの、考えつくものには感性や主観、バイアス等の混じり気が入ってしまう。その点、自然の織り成す世界ではそんな叙情的な思惑といった無駄が入る余地は全くない。
例えば、動物の体の一部や、花びらの色がビビッドなのは、別に差し色として見栄えがいいからではなく、種の繁栄というたった一つのシンプルな目的に向け、虫に花粉を運んでもらうか、もしくは外敵に捕食されないよう視覚的に警告しているから鮮やかなのだ。
フルーツが甘いのは鳥類に食べてもらい種を含んだ糞を遠くに運んでもらうためであり、ツル植物が周囲の大きい木に巻き付くのは、本来自重を支えるための茎を太くするリソースを光合成生産に回すことができるからといったように、皆、種や形は違えどそれぞれが中々にトリッキーな生存戦略を敷いている。
このように必ず全ての事象に説明がつき、ただ淡々とそこに完璧な役割と目的を持って存在している。
そんな世界に囲まれて一晩過ごす。
生き抜く力という人間の本質部分が試される
自然界では、たとえ些細なことであっても、解決しなければ生きていけないような深刻な問題になることもある。
暗くて周りが見えない、暖を取らなければならない、道具が足りない、貴重な水等の資源を確保しなければならない――。
日没までに必要な資材を、限られたマンパワー、体力、時間を使い知恵と工夫によって最も効率の良い方法で集め活用する。
その労力によって薪木に火を灯し「暖かさ」「灯り」「食料の調理手段」が得られると今度は生み出したその膨大なエネルギーをどうすれば最も効率的に活用できるのかを、例えば空気の通りが良くなるように地面を掘ろうとか、前に薪木を置いて乾燥させながら輻射熱も得ようとか、知恵と工夫で解決していく。
他にもご飯を食べる、快適に寝る、にも同じように様々な対策や工夫が求められる。