「年金がお入りになります」丁寧すぎる日本語をどこまで許容できるか?
すべて丁寧に、丁寧に
つい先日、新聞漫画「コロコロ毛玉日記」でも現代を象徴するような記述があった。主人公が飼い猫を医者に連れて行った帰り、人だかりがしていたという場面の描写に次のようなものがあった。
「警備員の人が(何だか)の犯人の人を取り押さえていたのだった」(「朝日新聞」2022.12.17、太字は筆者)
「の人」という言いかたは、きわめて今日的だと思う。「警備員の人」のほうはまだわかる気がする。しかし、「犯人の人」はどうだろう? 以前なら「警備員が犯人を」だったはずだ。
日本では職業名にも「さん」を付けることが多いので、「魚屋さん」「店員さん」と呼ぶことは日常的だ。それは「魚屋」「店員」というと、なんとなく「呼び捨て」感がつきまとい、丁寧ではないからだろう(それでも、病院の地図に「セブンイレブンさん」と書かれているのを見たときには驚いた)。
このような敬語や丁寧表現の氾濫はいったいどこからくるのだろうか。先に述べた「敬意逓減の法則」だけが原因ではないように思う。その背景には人間関係が希薄になってきたという事実があるのではないだろうか。
敬語を使うと相手との距離が生ずる。敬語や丁寧語を使えば使うほど、相互の距離は開いてしまう。逆に言うと、通り一遍の人間関係しか求めないのであれば、あたりさわりなく、とりあえず丁寧にさえ言っておけばいいということになる。
ことばは生きている
ただ、ここで忘れてはならないのは、いま正しいとされていることばがそもそも昔とは違っていることである。ことばは変わる。
たとえば、「全然」は「全然悪くない」というふうに、次に打ち消しや否定が来るのが一般的だが、昔は肯定文にも使われていたという。夏目漱石の『坊ちゃん』にも「生徒が全然悪いです」というくだりがある。
気になることば、間違いだと言いたいことばは、正直言ってたくさんあるが、先人たちもそうだったのではないだろうか。後の世代に向かって「変えるな」というのは、ことばが生き物である限り、土台無理なのかもしれない。
[筆者]
平野卿子
翻訳家。お茶の水女子大学卒業後、ドイツ・テュービンゲン大学留学。訳書に『敏感すぎるあなたへ――緊張、不安、パニックは自分で断ち切れる』、『落ち込みやすいあなたへ――「うつ」も「燃え尽き症候群」も自分で断ち切れる』(ともにCCCメディアハウス)、『ネオナチの少女』(筑摩書房)、『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』(河出書房新社、2006年レッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞受賞)など多数。著書に『肌断食――スキンケア、やめました』(河出書房新社)がある。